2017年11月20日
スポンサーリンク
2017年11月20日
1971年、高校3年生だったぼくは、部活動を“卒業”させられ(そこそこ受験校だったその高校は、3年生の夏休みが過ぎると部活動は禁止させられた)、土日になるとせっせと都内のコンサート/ライヴ会場に脚を運んだ。現役で大学に入るなんてハナから考えておらず、時間が有り余っていたのだ。親には「予備校に行く」とウソをつき、予備校代はコンサートの入場料に化けた。ひでえガキだった。
コンサートへはひとりで行くことが多かったが、同教生の森と行くこともあった。森はさっさと推薦で上智大学入学を決めていた。ぼくらは「上智なんて、女の行く大学だろ!」(当時はそういう認識だった)と責めたが、森は「受験勉強したくないし」とすまなそうに言った。翌年の春、みんなで上智を受験し、全員返り討ちにあって、森を羨んだ。
森はそのころから渋谷のライヴ・ハウス「ジァンジァン」の昼の部に出たり、隣の高校のバンド・四人囃子と組んで、ライヴ・ハウスに出演したりしていた。さっさと大学に入って音楽に没頭したかったのだ。森とは、後の森雪之丞(ミュージシャン、作詞家)である。
本当にたくさんのコンサート/ミュージシャンを観た。当時のコンサートは多数のミュージシャンが出演するオムニバス形式のものがほとんどで、その多くに吉田拓郎は出演していた。入場料は、大体600円くらい。日比谷の野音に行けば100円で観ることもできた。予備校代に比べれば安いものだ。ちなみに野音に行くときは、その前に銀座に寄ってできたばかりのマクドナルドのハンバーガーを食べるのが楽しみだった。おいしかった。ひとつ80円だったか。
お目当ては、もちろん吉田拓郎だ。この年の夏には中津川の第3回全日本フォーク・ジャンボリーで事件(「人間なんて」2時間事件)を起こしたと風の噂に聞いて、胸がざわついた。秋になると、小室等らと事務所(ユイ音楽工房)をつくったというニュースも伝わってきた。おまけに10月からは、深夜放送のパックイン・ミュージックのパーソナリティも開始された。「ああ、拓郎、すごいぞすごいぞ!」、自分のヒーローがグイグイと加速するまさにその時に立ち会っている、という高揚感。
そうして、そんな時期にリリースされたのがアルバム『人間なんて』だった。
『人間なんて』は拓郎自身のプロデュースで、サウンド・メイクは主に加藤和彦、元ジャックスの木田高介が担っている。そのせいもあって、とてもバラエティーに富んだアルバムだ。というより、当時の拓郎の臨海に達したエネルギーがLPというキャンバスに放出されたような内容だ。そして、これだけ名曲が揃ったアルバムも希有と言っていい。
トップのタイトル曲「人間なんて」はギターの弾き語り。後のイベントでのそれとは違い淡々としたボーカルと、ゴリゴリのギターのストロークが胸に迫る。思いが言葉を追い越した、究極のうたのかたち。
「ある雨の日の情景」、「花嫁になる君に」は、ぼくらが競ってギターのフィンガリングをコピーした曲。「花嫁~」の作詞は岡本おさみ。拓郎との初コラボ曲で、原詩のタイトルは「花嫁になるルミに」。「人間なんて」と通底する名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」は当時のぼくのテーマ曲だったが、いまでも変わらずぼくはこの曲に共振してしまう、すごい曲だ。
後半の「笑えさとりし人ヨ」~「川の流れの如く」は、木田高介グループによるR&Bアレンジ曲。ホーン・セクションをフィーチャーしたバックに乗って拓郎は思い切りシャウトする。アマチュア時代にR&Bバンドをやっていた面目躍如。後に渋谷公会堂でのライヴでこれらの曲を再演した際、本当に楽しそうにニコニコしてうたっていた拓郎を思い出す。一度はやっておきたかったんだろうなあ。
このアルバムをリリースした翌年、というよりほんの2カ月後、拓郎は正式にレコード会社をソニーに移籍し、このアルバムからシングル・カットした「結婚しようよ」が大ヒット、続くアルバム『元気です』も驚異的なヒットを記録し、「メジャー」へと旅立つ。「ぼくらのヒーロー」から「時代のヒーロー」へ。ぼくは、嬉しいのになんだか淋しくて、「どうしてこんなに悲しいんだろう」に繰り返し針を落とした。
アルバム『人間なんて』は、いちファンであるぼくと吉田拓郎との勝手な蜜月を最後に飾ったアルバムかもしれない。
≪著者略歴≫
大越正実(おおこし・まさみ):1953年、東京生まれ。ながく出版社に在籍し、多数の書籍・雑誌を手がける。元『シンプジャーナル』編集長、現『種牡馬事典』編集長。
作詞家としてはそのぶっ飛んだ発想で80年代以降の音楽シーンを席巻し、アイドル・ポップスからロック、Jポップ、アニソンまで幅広い作風で現在まで活躍する森雪之丞。本日1月14日は森雪之丞の誕生日。1...
日本人ならば一度は聴いたことのある曲。そんな1曲のひとつが、かぐや姫の「神田川」ではないだろうか。ムーンライダーズの武川雅寛による叙情豊かなヴァイオリンのイントロで始まり、南こうせつの歌声が切な...
本日、8月7日は、「第3回全日本フォークジャンボリー」が47年前に開催された日である。“サブ・ステージで「人間なんて」を歌っていた吉田拓郎が観客をあおってメイン・ステージへなだれ込ませた”という...
小学5年生の時に、初めて自分でレコードを買った。買い物ついでに地元のレコード屋に行き、なぜ「それ」にしたのかも、なぜ買おうと思ったのかも忘れてしまったけれど、手にしたのは、よしだたくろうの「結婚...
「今日までそして明日から」は吉田拓郎(当時は、よしだたくろう)の3枚目のシングルである。発売日は1971年7月21日。つまり、吉田拓郎のキャリアで重要なポイントとなった、ユイ音楽工房の設立(71...
ぼくが初めて岡本おさみさんの歌のことばに接したのは、1971年の8月、渋谷の小劇場ジァンジァンでの吉田拓郎の3日連続ライヴだった。「岡本おさみという人が変な歌をつくりまして……」そう言ってうたわ...
48年前の今日、フィリッピンの実力派5人組GS、デ・スーナーズのセカンド・アルバムがフィリップス・レコードから発売された。彼らは63年にマニラで結成されたグループで、香港で活躍していたところを加...
1975年3月31日は2月に発売された「ムッシュ」の愛称で知られるかまやつひろしの、「我が良き友よ」が、オリコン・シングル・チャートにて1位となった日。鑑みれば、1970年12月をもって解散した...
4月5日、吉田拓郎が古希を迎えた。感慨深いものがある。なぜなら、拓郎は私にとって人生の“伴走者”であり、“道標”であるからだ。 text by 富澤一誠
1977年の今日、3月1日に発売されたキャンディーズの13枚目のシングル「やさしい悪魔」は、彼女たちの転機になった曲だった。「キャンディーズ大人化計画」の第一弾であるこの曲、は作詞:喜多條忠、作...
1977年9月21日、キャンディーズの「アン・ドゥ・トロワ」が発売された。その2ヶ月前の7月17日、日比谷野外音楽堂でのコンサート中に突然発せられた「私たち、この9月で解散します」という衝撃のひ...
前回に引き続き、みうらじゅんが語るよしだたくろうのアルバム『人間なんて』。 いよいよブレイクしてきたよしだたくろうの、このアルバムに込められたすべてをみうらじゅんが勝手に全曲解説します。
みうらじゅんが敬愛してやまないよしだたくろうを語る連載。たくろうが当時住んでいて、『人間なんて』のジャケットにも使われた高円寺のマンション。後年、みうらじゅんが訪れて発見したものとは・・・。