2015年11月05日
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2015年11月05日
今から48年前の今日1967年11月5日はザ・ランチャーズのデビュー曲「真冬の帰り道」がリリースされた日。<ザ・ランチャーズのデビュー曲>と書いたが、正確には新生ランチャーズ、もしくは第三期ランチャーズのデビュー曲と記した方が良いかもしれない。何故ならば、ザ・ランチャーズという名前のバンドが結成されたのは「真冬の帰り道」リリースを遡る5年前のことであり、結成当時のメンバーは誰一人として、この<デビュー曲>のレコーディングに参加してはいないからである。
1962年、創立30周年を迎えた東宝は記念行事の一環として全国の系列映画館主や関係者を招いてのイベント『砧まつり』を企画。東宝の制作本部長で名物プロデューサーの藤本真澄は、前年からスタートした「若大将シリーズ」でギターやウクレレを弾きこなし学生時代からバンド活動をしていた加山雄三に、『砧まつり』の余興ため俳優や撮影所スタッフによるバンド結成の話を持ちかける。
さっそくメンバーが集められ、湘南育ちでヨット好きの加山らしく<進水する>という意味の英語<Launch>と、加山が当時愛聴していた米国の新進バンド「ザ・ベンチャーズ」との語呂合わせから「ザ・ランチャーズ(Launchers)」と命名されたバンドが誕生した。第一期ランチャーズである。
メンバーは加山雄三(ヴォーカル、ギター)の他、津田彰(ギター)、佐竹弘行(ベース)、三木敏彦(ピアノ)、速水洸(スチール)、二瓶正也(ドラムス)の俳優陣に、撮影所宣伝部員だった白石剛敏(ギター)という顔ぶれ。レパートリーもカントリー、ロカビリー、ハワイアン、ジャズからベンチャーズまでと雑多で、加山の(というよりも上原謙の)自宅にあった体育館で連日猛練習した甲斐あって、10月19日の『砧まつり』でのステージは大成功を収めた。翌63年1月には『日劇新春スタアパレード』に出演し、一般客の前で「Walk Don’t Run」「Blue Suede Shoes」などを披露。さらに東京サンケイホールで開催された加山の母校・慶應大学主催チャリティ・パーティーにも出演するなど活動を続けていたが、売れっ子だった加山をはじめ俳優陣のスケジュール調整が難しくなり、やがてバンドは自然消滅してしまう。
1964年、ベンチャーズ、アストロノウツなどによって日本でもエレキ・インスト音楽が注目されるようになると、加山は従兄弟の喜多嶋瑛(ドラムス)・修(ギター)兄弟、修の友人で<バルチャーズ>というバンドに居た大矢茂(ベース)と共に、エレキ・インストに特化したベンチャーズ・スタイルのバンド第二期ランチャーズを結成する。64年11月のことだった。翌65年12月、爆発的なエレキ・ブームを象徴する映画『エレキの若大将』の公開に合わせ、挿入曲であり弾厚作こと加山雄三作曲によるオリジナル・エレキ・インスト曲「ブラック・サンド・ビーチ」がシングル発売される。ザ・ランチャーズの名前がクレジットされた初のレコードだ。同じく<加山雄三とザ・ランチャーズ>名義で66年2月にリリースされた『恋は紅いバラ~加山雄三アルバム~(Exciting Sound Of Yuzo Kayama And The Launchers)』は、日本のポピュラー音楽史に残る重要アルバムとして現在でも高く評価されている。
65年末から66年にかけて「君といつまでも」「蒼い星くず」「夕陽は赤く」「お嫁においで」「霧雨の舗道」とたて続けにヒットを放ち大ブレイクした加山は、テレビの歌番組にランチャーズを引き連れて出演することが多かったが、その際、まだ高校生だった喜多嶋修と大矢茂は学校の規則でテレビ出演やライヴ演奏が出来なかったため、彼らの代役として慶應大のプラネッツというエレキ・バンドから堤光生(ギター)と岩崎道夫(ベース)が参加。この第二期<臨時>ランチャーズとも言える編成(シングル「旅人よ」のジャケット参照)で、加山は当時のテレビ出演やライヴ(映画『歌う若大将』でも観ることができる)をこなした他、『ハワイの休日』(66年6月)、『加山雄三のすべて第二集』(67年1月)の2枚のアルバムをレコーディングしている。
1967年4月、慶應大学に進学した喜多嶋修と大矢茂が晴れてランチャーズに復帰。加山からの「入学祝い」ということでバンドの独立を認められ、新たに修の同級生だった渡辺有三(ベース)が加わり、ここに第三期ランチャーズが誕生するのである。新生ランチャーズのデビュー曲となった「真冬の帰り道」は喜多嶋修が作曲、当時読売新聞文化部記者で「星はなんでも知っている」(平尾昌章)、「霧の摩周湖」(布施明)等のヒット作で知られる作詞家・水島哲(本名・安倍亮一)が作詞を手がけたオリジナル。以後、このコンビはランチャーズ作品のほとんどを生み出していくことになる。
同じく加山雄三が命名したバンド、ワイルド・ワンズにも似た12弦ギターをフィーチャーした所謂<湘南サウンド>っぽい曲調の「真冬の帰り道」だが、間奏のバロック音楽風のギター・ソロに彼らの独自性が感じられる。このクラシカルな側面を持つポップな音楽性こそがビートルズから強い影響を受けた新生ランチャーズ(特に喜多嶋修)の真骨頂であり、それはB面の「北国のチャペル」により色濃く現れている。そして、修のビートルズへの傾倒ぶりは第三期ランチャーズが残した2枚のアルバム…『フリー・アソシエイション』(68年12月)、『OASY王国』(69年9月)に顕著に反映され、ランチャーズ解散後に制作した修のビートルズ・サウンド研究の集大成とも言えるソロ・アルバム『ジャスティン・ヒースクリフ』(71年6月)で結実するのである。
1969年10月22日、東京サンケイホールで行なわれたリサイタル『OASY音楽会』でのステージを最後に喜多嶋瑛が米国留学のため脱退。後任として三保敬太郎とザ・ホワイト・キックスに居た河手政次が参加し、第4期ランチャーズがスタートするが、70年3月に6枚目のシングル「マドレーヌ」をリリース後に解散してしまう。同年8月に公開された加山雄三の主演映画『俺の空だぜ!若大将』には大学の後輩役で大矢と渡辺が出演。喜多嶋修が作詞(英語詞)・作曲を手がけた「Whatever The Cause」という曲を演奏するシーンがある。レコード化はされていないが、これがランチャーズ最後の作品と言えるだろう。
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