2017年06月15日
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2017年06月15日
ビートルズが来日した1966年は加山雄三ブームが世を席巻した年でもあった。そのきっかけは前年1965年12月に、エレキ・ブームが反映された人気シリーズの一作『エレキの若大将』が封切られ、その主題歌としてリリースされた「君といつまでも」が映画と共に大ヒットしたことによる。しかしながら、そこに至るまでにはもうひとつの物語がある。「君といつまでも」の原型ともいえる、三連バラードのヒット曲「恋は紅いバラ」の存在こそが、ブームの真の発端だったのである。加山のペンネーム、作曲家・弾厚作のデビュー盤ともなった「恋は紅いバラ」が発売されたのは1965年6月15日のことであった。
1960年に映画界入りした加山雄三は、その年の10月に封切られた岡本喜八監督のアクション映画『独立愚連隊西へ』の主題歌「独立愚連隊マーチ/イキな大尉」を佐藤允と共に歌ってビクターからプレ・デビューしている。そして翌1961年には東芝レコードから正式に歌手デビューを果たした。折しも流行していた“ドドンパ”のリズムがフィーチャーされた「夜の太陽」と、若大将シリーズの第1作となった『大学の若大将』の同名主題歌とのカップリングで、それぞれ中村八大、広瀬健次郎の作曲。「大学の若大将」では当時東宝の文芸部に所属していた岩谷時子が早くも作詞を手がけていた。さらに1962年に「みんな聞いてる青春(B面:別歌手)」、「日本一の若大将/一人ぼっちの恋」を発表した後、約3年ぶりに出された4枚目のシングルが「恋は紅いバラ/君が好きだから」である。
それまでのレコードがすべて他人からの提供曲であったのに対し、「恋は紅いバラ」は加山自身が弾厚作のペンネームで自ら作曲も手がけた初のオリジナル・シングル。この曲はもともと「DEDICATED」という英語詞で学生時代に既に作られており、1963年に公開された若大将シリーズ第4作『ハワイの若大将』の劇中で披露されたもの。弾厚作の名は、加山が尊敬していた音楽家、團伊玖磨と山田耕筰に由来する。1964年は黒澤明監督作品『赤ひげ』の撮影に専念したためシリーズの公開はなかったが、1965年8月に公開された2年ぶりのシリーズ第5作『海の若大将』では、「DEDICATED」に岩谷時子による日本語詞が施された「恋は紅いバラ」が主題歌としてレコード発売に至る。同時に作曲家・弾厚作にとっての記念すべきデビュー・シングルとなり、売上げ枚数50万枚ともいわれるヒットを記録した。加山が芸能界に入る際、タレントとして自社へ迎え入れることが叶わなかった渡辺プロダクションの副社長(当時)・渡邊美佐は、自らが代表を務める渡辺音楽出版で作曲家・弾厚作と契約を交わすことで雪辱を果たしたといえる。渡邊美佐のパートナーで当時の渡辺プロダクション社長・渡邊晋は「恋は紅いバラ」のヒットを大層喜び、「これと同じ様な、もっといい曲を1週間以内に書いてくれ」と加山に告げたのだった。
その注文を受けて作られたのが、やはり三連のロッカバラードでコード進行も非常によく似た「君といつまでも」である。まだチャート・システムが確立していない時代であったため正確なデータは不明ながら、200万枚とも300万枚ともいわれるウルトラ・ヒットとなった。弾厚作の作曲はもちろん、作詞の岩谷時子、編曲の森岡賢一郎の同じトリオによる楽曲は、間奏に台詞が導入されるのも一緒。つまり「恋は紅いバラ」は「君といつまでも」のプロトタイプであり、言い換えれば姉妹作ということになる。「君といつまでも」が余りに大きなヒットであったためにどうしても印象が薄くなってしまいがちだが、「恋は紅いバラ」こそ歌手・加山雄三の最初のオリジナル・ヒットであり、極めて重要な作品なのである。コンサートでは原点に帰って英語詞で歌われたり、日本語で1番が歌われた後、途中から英語で歌われるケースも少なくない。加山自身もずっと大切に歌い続けている一曲。ちなみに殿さまキングスが1976年に出した「恋は紅いバラ」はまったくの別曲であるが、奇しくもこの年は加山が艱難辛苦を乗り越え、「ぼくの妹に」で華麗なる復活を果たした年であった。
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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