2017年01月24日
スポンサーリンク
2017年01月24日
1月24日は五輪真弓の誕生日にあたる。彼女は誤解の多いシンガーであるように思う。それが、五輪真弓という才能の豊かさに所以しているのだが。アルバム・デビューは72年の7月1日。新人歌手でありながら海外レコーディング、それも五輪真弓のアイドルであったキャロル・キングとの共演という幸運なものであった。
当時のキャロル・キングは、ソロ・アルバム『つづれおり』をリリースした後であり、シングル「イッツ・トゥー・レイト」が全米チャートの1位を獲得した直後にあたる。この世界中から大注目されていたキャロルが、五輪真弓のデモ・テープを聴いて気に入り自ら参加を快諾したという。アルバム『少女』には、キャロルの相棒であったベーシストのキャールズ・ラーキー、西海岸派のスゴ腕ミュージシャンの一人で元カレイドスコープのクリス・ダーロウが参加。そして、プロデュースとエンジニアリングは、録音場所となったクリスタル・スタジオの創始者であり、キャロル・キングの『ライター』のプロデューサーでもあるジョン・フィッシュバッハが担当した。
これだけみても、凡百な物見遊山の海外録音とは明瞭に一線を画しているのが判るはずだ。さらにはここに五輪真弓の才能が加わり、見事なデビュー・アルバムに仕上がっている。あえて例を出せば、リトル・フィートのメンバーとセッションを繰り広げた矢野顕子の『JAPANESE GIRL』に匹敵する。がしかし五輪真弓のほうが4年も早く、海外のミュージシャンと対等に対峙する先駆を作った、画期的なアルバムとなるわけだ。日本語のロックの発展期をみるにおいて、五輪真弓の72年のデビュー・アルバム『少女』は、もっともっと評価されてもいい作品だと思う。
五輪真弓はもともとフォーク・フィールドの出身で、高校時代から友人と二人組のフォーク・グループ、ファンシー・フリー・シンガーズを組み、ソロで歌うようになってからニッポン放送の「バイタリス・フォークビレッジ」のオーディションに合格している。その当時の彼女のアイドルが、キャロル・キングでありジョニ・ミッチェルであった。
デビュー当時の彼女の実力を実感できる1枚が74年のライヴ盤『冬ざれた街ライブ』だ。大村憲司、高水健司、村上"ポンタ"秀一、深町純、石川鷹彦などをバックに従えた演奏で、渋谷の「ジャンジャン」で録音されている。この中にはデビュー曲の「少女」だけでなく、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」、キャロル・キングの「君の友達(You've Got A Friend)」「イッツ・トゥー・レイト」なども歌われている。
その後、細野晴臣、鈴木茂、林敏明らをセッションに招いた『Mayumity うつろな愛』(75年)などを発表するのだが、このアルバムがフランスで評価を受け、77年には全編フランス語による『MAYUMI』(フランスおよびヨーロッパのみで発売)がリリースされることとなる。
そして、80年に「恋人よ」という大ヒット曲を生み落とすこととなる。日本レコード大賞金賞を受賞したこの曲は、日本のロック/ポップス・ファンだけでなく、広く歌謡曲のフィールドまで巻き込み、国民的な歌となっていった。これは日本に留まらず、東南アジア各国でも根強いファンを引き寄せることとなるのだ。中でもインドネシアにおける人気は凄まじく、「恋人よ」と同じように「心の友」も、知らない人がいないほどの人気曲となっている。
確かに「恋人よ」以降は、歌謡曲になってしまったと抵抗を覚える方も少なくないかもしれない。がしかし、フランスでの成功をふくめて、自らをワールド・ミュージック化したと考えるとどうであろうか。アジア的なスタンダードを歌う歌手として位置づけてみると、五輪真弓の偉大さがわかってくる。こんな歌手が日本から生まれたことを、誇りに思うべきであるのだ。
写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
ダニー・オズモンドの「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」は、オズモンズの「ワン・バッド・アップル」が王座に輝いてから7ヶ月後、1971年9月11日付で見事全米No.1に輝いた。アメリカのシングル・...
1978年7月3日、サーカスの「Mr.サマータイム」がオリコン・シングル・チャートの1位を獲得した。サーカスにとっては2枚目のシングルで、翌年の「アメリカン・フィーリング」と並び、彼らの代表作と...
「ギター少女」がもてはやされ、各地のライヴハウスで自作曲を歌う女の子が賑わし、アイドル並みの熱い支持を受ける現在からは想像できないが、70年代初頭のフォーク・シーンは「男性上位時代」だった。そん...
シンガー・ソングライターという言葉、いまでは誰もが普通に使っているが、いつごろから使われはじめた言葉か、知っている人は意外に少ない。日本では、1970年から71年ごろにかけてまず洋楽アーティスト...
1973年4月20日、チューリップの代表曲のひとつとなった「心の旅」がリリースされた。発売から数か月かけてチャートの1位まで上り詰め、チューリップは大きく脚光を浴びることとなる。けれど、「心の旅...
リトル・フィートだったら、一日中聴いていたって飽きることがなかった。いまだってそれは変わらない。強靭なリズムがみなぎる演奏には、ワクワクさせられたものだ。しかも、彼らの音楽には、高い志を託すかの...
本日4月29日は後藤悦治郎の誕生日。赤い鳥のメンバーでもあり、フォーク・デュオ「紙ふうせん」のメンバーとしても知られる。1969年4月に結成された赤い鳥は、もともと高校の同級生だった後藤悦治郎と...
今から41年前の今日1975年4月20日にリリースされたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの4thシングルのB面曲だった「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」。彼らの運命を変えた名曲誕生秘話。text...
河島英五が亡くなって、もう15年の月日が経つ。まだ肌寒い日で、<巨星墜つ>の言葉が身に染みて感じられる日であったことを、今もしっかりと覚えている。河島英五の歌の素晴らしさは、歌い継がれていくとこ...
1974年のある日、新人ディレクター蔭山氏から紹介されたバンドが「愛奴」だった。バンド名から想像するとあまり期待できそうもないなと思いつつ彼らのデモテープを聴いた…。その愛奴でドラムを担当してい...
NSPの中野サンプラザ2DAYSが行われたのは1977年の11月24、26日の二日間。2000人以上収容できる中野サンプラザで二日間行うということは大きな意味があった。それは、応援してくれていた...
1975年の今日、11月16日、中島みゆきの「時代」が第6回世界歌謡祭でグランプリを獲得。同年12月21日、「時代」はセカンドシングルとしてリリースされた。デビューシングル「アザミ嬢のララバイ」...
81年10月21日にリリ-スされ、オリコン・チャート1位となった中島みゆき「悪女」。独特のエコ-を伴ったサウンドといきなり聞こえてくる“マリコの部屋へ…”という、インパクトのある言葉。その二つの...