2016年04月20日
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2016年04月20日
1973年4月、元芸能マネージャーとしてGSのガリバーズやエドワーズ等を手がけ、その後は銀座のクラブ等で弾き語りという経歴を持つ宇崎竜童を中心に結成され、当時人気のサディスティック・ミカ・バンドのような長い名前ということで宇崎が命名したダウン・タウン・ブギウギ・バンド(以下DTBWBと略す)は、同年12月に宇崎作の「知らず知らずのうちに」でレコード・デビュー。
翌74年5月には1stアルバム『脱・どん底』をリリースするが、“ブルース・ロックmeets歌謡曲”(宇崎は「カタカナ演歌」と称した)というコンセプトが斬新だった意欲作にもかかわらず、正当な評価を受けることはなく、アルバムからのシングル・カット「青春のすきま風」もデビュー曲同様、不発に終わってしまう。
転機となったのは、74年12月にリリースした「「スモーキン・ブギ」だった。フリートウッド・マックの「Shake Your Moneymaker」(オリジナルはエルモア・ジェイムス)をモチーフにしたようなこの曲は70万枚を超えるセールスを記録し、オリコン4位まで上る大ヒット。“ツナギ”のコスチュームにサングラス、リーゼント姿で一躍お茶の間にも広く認知された彼らは、ツッパリ・ヤンキー系御用達バンドとして“ポスト・キャロル”の最右翼とも言うべき存在となったのである。
そんなDTBWBが同じブギをタイトルに“二匹目のドジョウ”を狙ったのが、今から41年前の今日1975年4月20日にリリースされた4thシングル「カッコマン・ブギ」である。ちなみに「カッコマン」とは、彼らの音楽プロデューサーであるブルース・シンガー大木トオルが好んで使っていた言葉で、東京・日本橋生まれの生粋の江戸っ子らしい粋なセンスに宇崎も一目置いていた大木自身をも意味していた。
前作のヒットの勢いもあって、「カッコマン・ブギ」もそれなりに話題となったものの思わぬ事態が待っていた。有線放送やラジオの深夜放送などにB面の「港のヨーコ・ヨコスカ・ヨコハマ」のリクエストが殺到するようになったのである。気を良くした発売元の東芝EMI(当時)が5月にAB面を逆転して再発売したところ、6月23日付オリコン・チャートで見事1位に輝き、5週トップの座を死守してミリオンセラーを記録。第17回『日本レコード大賞』企画賞を獲得した。曲中に何度も登場する決め台詞「アンタあの娘の何んなのさ」は、この年を代表する流行語のひとつとなり、国民的人気バンドとなったDTBWBは大晦日の『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしたのである。
「港のヨーコ・ヨコスカ・ヨコハマ」は、この翌年の「横須賀ストーリー」から始まる山口百恵の一連のヒット曲を生み出すことになるソングライティング・コンビ阿木燿子&宇崎竜童にとって、記念すべき初シングル曲であり最初のヒット曲だった。元々、阿木の歌詞が先に出来て、それに宇崎が曲を付けたのだが、何度トライしてもしっくり来るメロディーが浮かばず四苦八苦したあげく最終的に思い付いたのが、昔から聞き馴染んでいたカントリー&ウエスタンによくあるトーク・ソング(トーキング・ブルース)の手法だったという。まさに窮余の一策と言えるだろう。
最初にレコード化されたのは、75年2月5日にリリースされた2ndアルバム『續 脱・どん底』においてであり、ベースにオルガンが絡む、ややテンポの早いアレンジだったが、シングル「カッコマン・ブギ」のカップリング曲に決定した際に再レコーディング。オルガンに代わりピアノがフィーチャーされ、よりドスを利かせたヴォーカルが聴けるヴァージョンに生まれ変わっている。
「帰って来た港のヨーコ」(エコノミック・アニマルズ)、「アンタ私の何んなのさ!? 港のヨーコ逃亡編」(港のヨーコを守る会一同)といった便乗アンサーソングまで生まれるほどの大ブレイク作品となった「港のヨーコ~」。当然、レコード業界の常識として“二匹目のドジョウ”を狙うわけで、75年7月にリリースされたDTBWBの次作シングル「商品には手を出すな!」は、「港のヨーコ~」と同じく阿木&宇崎コンビによるトーク・ソング・スタイルの作品だった。
しかし、あまりにも前作のインパクトが強いが故の二番煎じ感は否めず、結局約13万枚のセールスでオリコン16位止まりという成績に終わっている。「カッコマン・ブギ」の時もそうだが、どうもDTBWBに“二匹目のドジョウ”狙い戦略は不向きのようである。
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