2015年11月24日
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2015年11月24日
1977年…デビューして4年目、上京して3年目。いろんなアーティストと他流試合的なライブも経験…アリスの曲間のトークの巧さ、ライブの流れの作り方に感動、オフコース(デュオだった頃)のコーラスの上手さにビックリし、海援隊のキャラの強さに唖然とし、ふきのとうとは仲良しになったりしながらその年3月18日の熊本市民会館を皮切りにスタートさせた恒例の春・秋コンサートツアー『街から町へ』も11月22日の三島市公会堂で静かに幕を閉じるはずでした。が、急遽、中野サンプラザでツアーとは一線を画したリサイタル形式のスペシャルなコンサートを行うことをスタッフが発表します。それも11月24日、26日の2DAYSという僕らにとっては初の試み。“次はNSPだね!”と言われ続けて3年…(笑)。
この2DAYSにはスタッフなりの狙いがありました。ひとつは11月25日に発売される通算9枚目のアルバム『黄昏に背を向けて』でアルバムのトータルセールスが100万枚を突破するということ。そしてこの2DAYSという話題性。当時、都内で2000人以上収容可能な渋谷公会堂、新宿厚生年金会館大ホールと並び中野サンプラザでの2DAYSには大きな意味がありました。それはずっと応援してくれていたファンや全国のイベンター、音楽業界関係者に向けて、いよいよ次は武道館!そして大ブレイクという期待とメッセージが暗に込められていたからです。所属事務所、コンサートスタッフもそれまでのツアーで手応えを感じていて、ここがひとつのターニングポイント!この2DAYSを成功させ一気にと意気込んでも不思議ではない時期でもありました。そんな大事な中野サンプラザでの2DAYS、恥ずかしながら全然記憶にないんです(笑)記憶力には自信のある僕の記憶にない2DAYSの記憶を覚醒させるため、当時の関係者に訊いて回ってもほとんど曖昧な状態。そこで閃いたのが当時会場に足を運んだ元少年少女ファンへの呼びかけでした。思いがけない情報や証言をゲットすることが出来ました。
まずはチケット。「N.S.P Recital Tour '77 TOKYO」と海外アーティスト並みのタイトルでカッコイイんですが肝心の会場名も日付けも券面に明記されておらず、座席指定番号のみ。2日間とも行きましたという女性から2日分のチケット画像を送って頂きましたが、全く同じデザイン!適当だった70年代(笑)とはいえ開いた口が塞がりませんでした。ギリギリまで会場も日程もなかなか決まらなかったんでしょうね、今更ながら僕らスタッフの度量と度胸と執念に頭が下がる思いでした。そして肝心のコンサートはどうやら2部形式だったようです。
《第1部》
白い椅子の陰/ゆうやけ/おもいで/昨日からの逃げ道/秋日/お茶の一服/砂浜/赤い糸の伝説
《第2部》
星も見えない/弥生つめたい風/五月雨/あなたこっちを振り向いて/みつからないように/朝/夕暮れ時はさびしそう/やさしい町/あの夜と同じように/北北東の風
〈アンコール〉 あせ/さようなら
この中野サンプラザ2DAYSのリサイタルはお陰様で大成功に終わったようでした(笑)。足を運んでくれたファンによると2日間とも満員。次は武道館!と力の入るスタッフ陣。しかし、コンサートスタッフの熱い思いや狙いとは裏腹に天野くんは武道館コンサートにはまったく興味を持っていないという真情を吐露し、その気になっていた僕と中村くんを驚かせます。NSPは歌詞や曲調そして音響のことを考えると500人から2000人ぐらいのキャパで最後部座席まで歌もMCも自分らの姿も隅々まで行き届くような会場でというのが天野くんの主張でした。必要以上に大きく見せることよりも等身大の自分とNSPを貫きたいと…。
スタッフに何度となく時には大きく見せることも必要だと説得されましたが頑なに首を縦に振らない民主主義という名の仮面を被った独裁者天野くん(笑)結局1978年、79年も春、秋と街から町をコンスタントに回り続けますが、何故か1979年暮れの12月22日、23日に再度2DAYSにチャレンジします。場所も同じく中野サンプラザ。この時の天野くんは2年前とは違っていました。「ひらがあ~、来年は田コロでやるぞ!」
武道館も野外イベントにも興味を示さなかった天野くんの身に何が起こったのか…?
実はこの年の夏、オフコースが田コロ(田園コロシアム)でのコンサートを大成功させ、暮れのニューシングル「さよなら」で大ブレイクしてしまいます。それに焦ったのか?あやかりたかったのか?いや、彼はここがNSPのターニングポイントと決断したんだと思います。
1980年8月2日、あっという間に完売した田コロでコンサートツアー『街から町へ』の集大成とも言うべき一大イベントに臨んだNSPでしたが当日は生憎の大雨…久々のライブ盤発売も見据えたライブ録音は楽器や機材のトラブル、雨音などノイズだらけでNG、ライブ自体も曲順の変更を余儀なくされ想い描いていたコンサートとはほど遠い内容になってしまいました。手の届きそうだった洋々たる未来が雨に滲みて零れ落ち、運とともに瞬く間に水に流されていくような気分でした。雨の田コロは僕らにそれなりの達成感を与えてくれましたが、大きなイベントの“怖さ”とともに教訓をも同時に与えてくれました。NSPは再び春と秋にコンサートツアーを組み、夏と冬を曲の創作期間、充電期間に充てるという活動に終始しますが、あの1977年11月24日、26日のあとに天候に影響されない武道館でのコンサートを発表していたら…やめよう、やめましょう!覆水盆に返らず(爆)
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