2015年12月29日

1974年のある日、新人ディレクターからデモテープを渡された。バンド名は「愛奴」だった…本日は浜田省吾の誕生日

執筆者:川瀬泰雄

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1974年のことである。


CBS/SONYレコードでアンドレ・カンドレ(後の井上陽水)の担当だった中曽根プロデューサーから新人ディレクターを紹介された。吉田拓郎のいた「広島フォーク村」出身のディレクターで、僕に見てほしいバンドを抱えているという。その新人ディレクター蔭山氏から紹介されたバンドが「愛奴」だった。そんな名前のアングラ映画があったような気がするな、というのが最初の印象だった。バンド名から想像するとあまり期待できそうもないなと思いつつ彼らのデモテープを聴いた。音を聴いてイメージはガラっと変わった。上質のポップスだった。


メンバーは青山徹(Guitar & Vocal)、町支寛二(Guitar & Vocal)、山崎貴生(Percussion, Keyboard & Vocal)、高橋信彦(Bass)、浜田省吾(Drums, Percussion & Vocal)の5人。

音楽に前向きな好印象の若者たちだった。ちょうど井上陽水がホリプロを離れた時でもあり、次のロック系のアーティストを探している時期だった。


デモテープのサウンドもかなり自分好みのサウンドだった。堀威夫社長にその話をすると、川瀬がいいと思うのならやってみろという話だった。すぐに連絡を取りレコーディングの話を進めていくことにした。練習に立ち合い相談しつつ選曲をしていく。メンバーのほとんどが作曲もするし歌も歌うというバンドである、ともすればそれは強みでもあるが、ちょっと焦点がぼけてしまう恐れもあった。蔭山氏とメンバーとの話をした結果、最初のアルバムということもあり、メンバーの個性を出していきたいということなのでとりあえず納得して、全員の作品の中で作っていくことにした。作っていくうちに、浜田の作ってくる曲が個人的には一番好みのメロディが多いことにも気が付いた。


バンドの成り立ちを簡単に書くと、「広島フォーク村」の音楽仲間で山崎貴生、町支寛二、高橋信彦の3人で「グルックス」というグループが結成される。(「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』の中に収録されている)


一度解散をするが広島時代からの友人である青山徹と浜田省吾の2人が参加して「愛奴」が結成された。そして、全員が大学を中退して広島へ戻り、ひたすら練習の日々を過ごしたということだった。



レコード・デビューは1975年5月1日にアルバム「愛奴」、シングル「二人の夏」が同時にリリースされる。


実はデビュー・シングルは当時としては斬新なビーチボーイズ風の「二人の夏」と2枚目に発売された「恋の西武新宿線」との2曲が候補にあがり、どちらの曲にするか非常に迷っていた。当時レコード会社のCBS/SONYでは学生を主体とした社外モニター制度があり、そこでいい曲だという評価が20~30%くらいあるとヒットするということだった。そこで「愛奴」の「二人の夏」と「恋の西武新宿線」の2曲をモニターしてもらった。


結果はどちらの曲も40~45%以上の高評価ということだった。どちらを出しても大ヒットだという話である。だったら当初の予定通り「二人の夏」をリリースしようということになった。しかし結果は惨敗。それでも2枚目は当たるだろうと「恋の西武新宿線」をリリース。また惨敗。それ以来モニター制度は信用しないことが習性になってしまった。


「愛奴」のそれぞれのメンバーの才能はかなり水準が高かった。浜田の作曲能力、町支のボーカリストとしての才能、青山の卓越したギター・テクニックなどその後の活躍を見れば納得してもらえると思う。しかし、この音楽がヒットするということと才能とは必ずしも一致しないのが、この世界の厳しいところであり、面白いところでもある。


余談だがその頃、町支が結婚することになり、立会人をすることになった。教会で一緒にバージンロードを歩いてサインをするだけだということで気軽に引き受けた。1年後くらいに浜田も結婚するので立会人をやって欲しいとのこと。気軽に引き受けたところ浜田のお父上から「このたびはご媒酌人をお引き受けくださり…」の格調の高いお手紙を頂戴した。今さらお断りすることもできずお引き受けしたのだが、媒酌人の挨拶などまともに出来ず、トラウマになってしまい、それから10年以上人前で話すことが苦手になってしまった。


1年も経たずに、最初に感じた予感のようなものが、当たってしまったと思った。

バンドにはリーダーは沢山入らない。全員が作曲し、それぞれの意見を汲み上げることなど所詮無理なのである。ジョン・レノンとポール・マッカートニーのように二人の強いリーダーが同居する事などは本当に稀である。浜田は自身のバンドのドラマーとしての自信のなさと、自分の曲をバンドで生かし切れていないということなどがあり、ドラマーとして岡本郭男を加入させる。そしてメンバーの引き留めにもかかわらずバンドを抜けることを決意した。


「愛奴」の2枚目の録音は始まったが、浜田のソロ・デビューはまだ決定していない状況だった。その間、浜田は曲を作り続けた。1本ごとに沢山の作曲した曲が詰まったカセットが、数10本僕の家の段ボール箱に保存してある。

当時のことが本人の言葉で書かれている。

http://shogo.r-s.co.jp/disco/aido01.html>

浜田の作るメロディが好きな僕は、まだソロ・デビューも決まっていない状態の浜田に少しでも収入の助けになるかとの思いもあり、他の担当アーティストやアイドルのためにかなりの曲数を作ってもらった。山口百恵も浜田の曲が気に入り、百恵本人が詞をつけたいと申し入れしてきたほどだった。新人のデビュー曲などで浜田本人が気に入らないものもあったかもしれないが、曲を集めるときは必ず作曲家の候補に入れていた。


そして『路地裏の少年』のデモテープが出来上がってきた時、今まで書き溜めてきた曲の中でも詞が一つ抜き出てきたように感じた。

浜田のソロ・アーティストとしてのプロデュースをしたいと思った。


浜田の文章は以下のサイトで

http://shogo.r-s.co.jp/disco/album01.html>


ただ、その当時僕が、同時進行で担当しているアーティストは10組以上いた。

アイドルから、ポップス、シンガー&ソングライター、etc.

ソロ・アーティストとしての活動はレコーディングと同時にマネージメントも重要である。他のアーティストとの兼ね合いをどうやって作っていこうかと悩んでいる時に、堀社長の所に、MOPSを解散した後、プロデュースの仕事をしたいという相談をしにMOPSのドラマーで僕とも気の合っていたスズキミキハル氏が来ていたのである。


浜田をミキハル氏に任せることにした。船頭が多くなると、船がろくなところへ進まないと思い、参加したいのはヤマヤマだが口を出すのは極力我慢することにした。

結果は大成功だった。ミキハル氏のセンスも任せて良かったと思った。

何年かの間に、僕の家の段ボールの曲も何曲か詞が替わって復活されていた。


先日12月9日のNHKホールのコンサートを観た時、還暦をすぎてもパワフルな浜田省吾を見た。ポール・マッカートニーやミック・ジャガーに感じたのと同質の本物の大人のロッカーだった。カッコ良かった。

日本にも大人のロックが出来上がったことが心底うれしかった。

浜田省吾

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