2017年03月16日
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2017年03月16日
1968年3月16日付けの全米シングル・チャートにおいて、オーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」が第1位に輝いた。60年代のソウル・ミュージック・シーンを代表するシンガーとして活躍していたオーティスだったが、63年の全米デビュー以来、意外にも大ヒットした曲はなく、それまでの最高位は、65年にリリースした「愛しすぎて」の第21位だった。それだけに、「ドック・オブ・ザ・ベイ」は彼にとって念願のナンバーワン・ヒットだったが、残念なことに、本人がその朗報を知ることはなかった。
この曲をスタジオで録音して間もない67年12月10日、オハイオ州クリーヴランドでのテレビ番組出演を終えたオーティスとツアー・バンドのバーケイズは、次のショウ出演のために小型飛行機でクリーヴランド空港を飛び立ち、ウィスコンシン州マディソンへと向かったが、濃霧のためにパイロットが着陸地点を誤り、湖へと不時着。真冬で湖面に氷がはっていた冷たい水中が、不世出の天才ソウル・シンガーの命を奪ってしまう。享年26という若さだった。
追悼盤としてリリースされた「ドック・オブ・ザ・ベイ」が大ヒットした背景に、不慮の事故により突然この世を去ったオーティスに対する哀悼の想いがあったのは言うまでもないが、けっしてそれだけじゃなかったと思う。それ以前のオーティスといえば、魂がほとばしるようなシャウトや情熱的なバラードが売りのシンガーであり、そのスタイルは、彼が所属していたスタックス・レーベルに代表されるアメリカ南部のソウル・ミュージックを体現するものでもあった。しかしながら、この「ドック・オブ・ザ・ベイ」は、そうした曲とは明らかに異なる、フォーキーで思慮深いバラードだったのである。
スタジオでオーティスと一緒に作業することが多かったブッカー・T&MGズのギタリスト、スティーヴ・クロッパーも、当時のオーティスの様子について“これだって確信していた。すごくエキサイトしていたよ”と証言している。つまり、この「ドック・オブ・ザ・ベイ」という曲は、オーティスが、それまでとはちがう新たなスタイルへと歩みはじめた意欲作だったのだ。
故郷のジョージアから遠く離れたサンフランシスコの港に、ひとりたたずんで、打ち寄せる波や水平線に沈む夕日をながめている男。それはオーティス自身だったにちがいない。レコーディングのファースト・テイクでテープが回りはじめたとき、彼はカモメの鳴き声を真似てみせて、気だるい海辺のムードをバンド・メンバーに伝えたという。エンディングでは、彼自身のものと思われる口笛が、なんともいえない情感を醸しだしている。それまでの人生をふりかえるようなこの曲が遺作となってしまった事実。偶然とはいえ、何ともいえない気持ちで胸がいっぱいになる。
おそらく、この名曲をレコーディングした当時、オーティスの頭のなかには、ほかにもたくさんの新しいアイディアが詰まっていたことだろう。それは、ソウル・ミュージックに革新をもたらすものだったかもしれない……そう思うたびに、彼の早すぎる死が残念でならない。
オーティスがその後の音楽シーンに与えた影響力の大きさは、なにもソウル・ミュージックに限ったものではない。我が国では、忌野清志郎も彼から多大な影響を受けたひとり。彼が得意とした“ガッタ・ガッタ”というフレーズは、言うまでもなくオーティスの歌唱スタイルを真似たものだ。
あれは自分が高校生だったから、80年代のことだったと記憶するが、年末にインタビューを受けた清志郎さんが、「今年一番良かった作品は何ですか?」という問いに、「やっぱりオーティスだね」と答えていたのが妙に印象的だった。時代や流行に左右されず、自分が信じた音楽をずっと聴き続ける大切さを、そんな清志郎さんの何気ない発言から学んだような気がする。だって、オーティス・レディングのソウルは、いつだって最高なのだから。
≪著者略歴≫
木村ユタカ(きむら・ゆたか):音楽ライター。レコード店のバイヤーを経てフリーに。オールディーズ・ポップスを中心に、音楽誌やCDのライナーに寄稿。著書に『ジャパニーズ・シティ・ポップ』『ナイアガラに愛をこめて』『俺たちの1000枚』など。ブログ「木村ユタカのOldies日和」もマイペース更新中。
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