2016年09月28日
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2016年09月28日
1968年8月31日、ビートルズが設立したアップル・レコードからの記念すべき第1弾作品としてリリースされたのが、メリー・ホプキンのデビュー曲「悲しき天使」だった。アップルからは、ほかにも3タイトルが同日リリースされたが、そのうちの1枚は、かの有名なビートルズの「ヘイ・ジュード」。ちなみに、残りの2枚は、ジャッキー・ロマックスとブラック・ダイク・ミルズ・バンドだったが、いずれも不発に終わっている。
アップル・レコードの設立に際して、ポール・マッカートニーは有望な新人アーティストを探していた。そんなとき、ポールの友人だったモデルのツイッギーが、たまたまテレビのオーディション番組を勝ち抜いていたメリー・ホプキンを見て気に入り、ポールに電話をかけた。ポールはさっそくメリーに連絡を取り、直接会ってその歌声を聴き、すぐにアップルとの契約が成立。当時の彼女は18歳で、スウィンギン・ロンドン時代のシンデレラ・ガールの誕生だった。
メリーのレコード・デビューにあたっては、ポール自ら全面協力し、プロデュースも担当。彼が用意したのは、アメリカ人のジーン・ラスキンが東ヨーロッパの民謡をもとに書き上げた曲「悲しき天使」で、ポールは以前、ロンドンのクラブでジーンが歌っているのを聴いたことがあって、それ以来、この曲をリリースする機会をねらっていたという。メリーの麗しい美声がトラディショナルな旋律のなかに溶け込んだ「悲しき天使」は、リリースされると全世界で500万枚を売り上げる大ヒットとなり、イギリスにおいては、68年9月28日付けのチャートで、「ヘイ・ジュード」にとってかわって1位を獲得。ビートルズ以外のアップルのアーティストで唯一ゴールド・ディスクに輝いたのが、この「悲しき天使」だった。なお、この曲はイタリア語、スペイン語など、5ヶ国語で歌ったヴァージョンが作られ、それが世界的ヒットを後押しした。
ポールはその後も、セカンド・シングル「グッドバイ」を書き下ろしたり、ファースト・アルバム『ポスト・カード』をプロデュースするなど、メリーをバックアップしたが、もともとは生まれ故郷であるウェールズ地方のトラディショナル・ソングを歌うことを希望していた彼女は、徐々にポップ色を強めるプロダクションに疑問を抱くようになり、69年の「ケ・セラ・セラ」の録音を最後に、ポールの下から離れることになった。
ところで、この「悲しき天使」に関しては、久保田早紀が79年に放ったヒット曲「異邦人」に似ているという指摘がされることがある。どちらの曲も、ヨーロッパの民謡から影響を受けているという共通点があるのが、その要因だろう。日本の歌謡曲やポップスには、ヨーロッパ各地方の民謡から影響を受けている作品が少なくないことを、ひとこと付け加えておきたい。もちろん、「悲しき天使」も「異邦人」も、時代を超えてポップス・ファンを魅了する名曲であることに疑いの余地はない。
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