2017年01月12日
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2017年01月12日
人気の浮き沈みが激しい音楽・芸能界で、現役として活動し続けることは決して容易なことではない。戦後ポピュラー音楽シーン70余年の歴史でも、時代の寵児として脚光を浴びるアーティストが何人も現れては消えて行った。そんな中、50年代のロカビリー・ブーム、60年代のGSブーム、70年代のフォーク・ブーム等、我が国の歴史的音楽ムーヴメントの現場で、常に現役アーティストとしての存在感を発揮しながら現在に至る稀有な男が居る。本日1月12日に78歳の誕生日を迎えるムッシュかまやつ(かまやつひろし)である。
ムッシュかまやつ(本名・釜萢弘)は1939(昭和14)年1月2日、日本ジャズ界のパイオニアの一人でもあるジャズ・シンガー、ティーブ釜萢の長男として東京に生まれる。中学生の頃からジャズに興味を持ち、ジャズ・トランペッターだった叔父の森山久(森山良子の実父、森山直太朗の祖父)の指導でトランペットをマスター。高校進学後はカントリー&ウエスタンに傾倒し、名門カントリー・バンド「オールスターズ・ワゴン」に“トラ(代役)”で参加して米軍キャンプで歌い始めた。
58年3月には、小坂一也とワゴン・マスターズに参加。ロカビリー・ブームが巻き起こった58年には、水原ひろし(後に守屋浩と交代)、井上ひろしと共に“三人ひろし”の一人として売り出され、一躍世間の注目を浴びるが、御本人はロカビリーが嫌いで、あくまでも正統派カントリー・シンガーを目指していたようだ。60年2月、テイチクより「殺し屋のテーマ」でレコード・デビュー。当初はカヴァー・ポップス全盛期ならではの「おおキャロル」「GIブルース」といったカヴァー盤をリリースしていたが、やがてレコード会社の意向から「結婚してチョ」「マージャン必勝法」といったコミカルな歌謡曲にシフトしていった。ヒットには恵まれなかったが、翌61年までにシングル19枚とアルバム1枚をテイチクからリリースした他、日活の青春映画にも端役だが数多く出演している。
62年頃から当時ジャズやイージー・リスニングを演奏していた田辺昭知とスパイダースに時おりゲストで歌っていたが、やがて正式加入すると、まだ日本では知られていなかったビートルズに注目。スパイダースをビート・グループへと変身させる推進者となった。以後、スパイダースの音楽的コンセプトでリーダーシップを発揮し、ソングライターとしても、デビュー曲「フリフリ」をはじめ、「ノー・ノー・ボーイ」「サマー・ガール」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」「バン・バン・バン」等、現在もGSスタンダードとして親しまれる数多くの名曲を残している。
スパイダース解散後の70年代以降は、当時の世界的音楽シーンの潮流のひとつでもあったシンガー・ソングライターの台頭に歩を合わせるかのように、自身のソロ作品だけでなく、様々なアーティストへの作品提供、CMソング、アニメ主題歌なども手がけて行く。吉田拓郎などフォーク勢から、ウォッカ・コリンズ(アラン・メリル、大口広司)、ミカ・バンドなどロック勢、さらには村井邦彦、安井かずみ(ムッシュと同じ誕生日)、なかにし礼といった歌謡界の売れっ子作家まで、その幅広い交友関係を反映するかのように、その変幻自在な創作活動は80年代、90年代、そして新世紀を迎えても変わらず、近年は彼をリスペクトする若い世代とのコラボレーションが目立つ。
音楽トレンドの推移に敏感に反応しながら、時代の流れを巧みに泳ぎ渡り、音楽シーンに独自のポジションを築き上げたムッシュ。日本のポピュラー音楽史上、これだけ自由なスタンスで長い活動歴(ローリング・ストーンズよりも長い)を誇れるアーティストは他に類を見ない。まさに唯一無二、孤高の存在と言えるのではないだろうか。昨年は肝臓ガンを患い入院騒ぎもあったが、現在は無事退院し仕事復帰への準備中と聞く。これからも変わらずマイペースで息の長い活動を続けてほしいと願うばかりである。
≪著者略歴≫
中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。
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