2018年11月23日
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2018年11月23日
“たかがロックンロール”と命名されたこの傑作アルバムは、1974年10月18日に英米で同時発売された。躍動感溢れるロックンロールだけでなく、バラード、レゲエ感覚にフィリーソウル、ついにはファンク的要素あり、とバラエティに富んだ内容で、現在、聴いても素晴らしい。しかし発売当時、僕の周囲にいた熱心なストーンズ・ファンは、このアルバムを手にして誰もが戸惑った。それは主にアルバムの顔であるジャケットに起因するようだった。ベルギー生まれの画家、ギィ・ペラートによるアート・ワークの意外性。まるでギリシャ神話に出てくるような雰囲気の妖精たちに囲まれて階段を降りてくるストーンズの面々。そのストーンズの面相がどうにも似てない上に、顔と胴体が離反しているように見える。若い女性達は笑顔で手を差し伸べ、祝福しているように見えるが、ストーンズの誰もが生き生きとしては見えない。無表情である。特にキースはキースに見えない。同じ1974年5月に発売されたデヴィッド・ボウイの『ダイアモンドの犬(この作品もペラート作品)』と比べると、かなり見劣りしてしまう。直観的にネガティヴな印象を持ってしまったのである。しかもアルバムの内容に結びつくイメージはどこにも感じとれなかった。ところがレコードをターン・テーブルにのせて耳を傾け、しばらくすると印象はがらりと変わった。
さて、このアルバムは前年の1973年秋に終了したフランスを除く大々的なヨーロピアン・ツアーの後(ツアーは10/19にベルリンで終了)、11月13日、ドイツ・ミュンヘンのミュージックランド・スタジオで収録が開始され、24日にセッションは一度終了した。この時、ミック・テイラーはドラッグ治療のため、ミュンヘンに同行しなかったようだ。その後、年が明けて、たびたびミュンヘンでセッションを繰り返した。一方で、ベースのビル・ワイマンは初のソロ・アルバム『モンキー・グリップ』制作でLAに行き、不在が多かったようである。また、ドラッグなどの前科故に絶えず官憲に監視されるキースは歯の治療のためにスイスに滞在。(この時、ドラッグ治療の為に血液を全部入れ替えたと言う伝説的な噂が世界的に流れた。しかし、2010年に発行された自伝「Life」でこれを完全否定している)また、ミックはスペインにフットボール観戦に行ったり、ニューヨークのライヴ・ハウス「ボトム・ライン」に現れたり、3月にはジョン・レノンとLAでセッションをしたようである。(この当時のミックが社交的外交的なのは、楽曲創作のヒントを探しているようにも思える)このように、ストーンズのメンバーは個別に行動しており、それが例えばアルバム1曲目の「If You Can't Rock Me」のベースをキースが演奏する事になった原因かもしれない。それと殆どの楽曲のベーシック・トラックは、ミックの家であるスターグローヴズで作られた可能性が高い。ざっくり言うと、今になって過去の記録を探るうちに、このアルバムは、ミック・ジャガーが主導的に作ったに違いないと言う印象を持つに至るのである。
それとこのアルバムの大きな特徴は、1968年「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」から始まり、アルバム『山羊の頭のスープ』までプロデューサーとして活躍して来たジミー・ミラーが、このアルバムの制作途中で撤退したことであり(一部ではドラッグ治療のためと言われている)、そのためミックとキースの二人(グリマー・ツインズ)でセルフ・プロデュースを開始した事であり、サックスなどの管楽器を一切使わなくなった事であり、ミック・テイラーがこのアルバムを最後にストーンズを脱退した事である(ミック・テイラーがこのアルバムで展開するギター演奏は最後の花火のように華麗で美しい)。おそらくミック・ジャガーは早くに彼の脱退しようとする意思を察知し、スタジオでのやり取りなどでそれを嗅ぎ取ったに違いない(二人は'73年10月25日、ビリー・プレストンのステージに飛び入り演奏し、この時テイラー脱退の噂が初めて流れた)。このように数々の困難を知恵を絞って乗り越えてゆくミックの暗中模索を想像すると、壮絶にも思えてくる。
その困難の中に、登場するのが当時フェイセズの人気ギタリストであったロン・ウッド。彼は初のソロ・アルバム『俺と仲間』を制作中でロンドンのリッチモンドにある彼の邸宅「ジ・ウィック」を気のおけない音楽仲間に開放していた。そこにミックが訪れ、さらにデヴィッド・ボウイや近所のケニー・ジョーンズが加わり、フリーセッションが始まり偶発的に出来上がったのがアルバムのタイトル・ソング「たかがロックンロール、でも大好き」なのである。この曲は、ある意味で反語的表現であり自虐的でもあり、ミックのシニカルな反ジャーナリズムの意図があり、独特のメタファーも感じ取れ、音楽的にはチャック・ベリー・スタイルの伝承だと考えている。最初はダブ・バージョンだったのをキースの手法で手直しされたようだ。現在でも、コンサートでは必ず演奏するミック・ジャガーお気に入りの一曲である。
ともかく、チャーリー・ワッツの入魂のドラムで始まるこの豊穣なるアルバムが、アメリカのビルボード・アルバムチャート部門で輝かしい1位を獲得した事は、当然の結果であると思う。ちなみに僕はこのアルバムの中の佳作「ショート・アンド・カーリーズ」が最近のお気に入りである。
≪著者略歴≫
池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。
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