2019年01月29日
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2019年01月29日
1月29日は岡村孝子の誕生日。
岡村孝子は、大学在学中に同級生の加藤晴子とデュオグループ、あみんを結成。1982年の第23回ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に出場したあみんは、岡村が作詞・作曲した「待つわ」でグランプリを獲得した。そして、デビュー曲として発売された「待つわ」は、この年最大のヒット曲となったというシンデレラストーリーは有名だ。
ちなみに、あみんというグループ名の由来は、さだまさしの曲「パンプキン・パイとシナモン・ティー 」に出てくる喫茶店の名前。そんなエピソードからもわかるように、岡村孝子はさだまさしの音楽に影響を受けているという。
しかし、あみんとしての活動期間は短く、1983年には活動を休止している。その背景には、彼女たちが急激に時代の脚光を浴びてしまったことで起きた軋轢があった。
奇しくも、1980年代初頭は、女子大生をパーソナリティに起用した文化放送の『ミスDJリクエストパレード』(1981年スタート)、『CanCam』(1982年創刊)をはじめとする女子大生ターゲットのファッション誌創刊ラッシュ、さらに女子大生軍団オールナイターズを売り物にしたテレビバラエティ『オールナイトフジ』(1983年スタート)などにより、いわゆる女子大生ブームが巻き起こっていた。
まさにその渦中に現れた女子大生デュオ、あみんが放っておかれるハズがなかった。
けれど、それは本人たちが望んだことではなかった。彼女たちは、普通の大学生活を送りながら歌っていきたい、と思っていたただけで、女子大生タレントになりたいわけではなかった。
結局、あみんは解散を選び、岡村孝子は一度音楽シーンから離れて行った。
しかし、彼女の歌の魅力を惜しむ声に押されて、2年後の85年にソロ・アーティストとしてシングル「風は海から」で復活する。
ソロ・アーティストとしての岡村孝子は、代表曲ともなった「夢をあきらめないで」(1987年)をはじめコンスタントに作品を発表していくが、注目すべきなのは80年代後期から90年代の彼女が、アルバムアーティストとしてリスナーに支持されていったことだ。米米クラブ、ドリ・カムなどが、次々とミリオン・ヒットを送り出していた時代、岡村孝子のシングルが大ヒットしていったという印象はない。しかし、「夢をあきらめないで」が収められた『liberté』以降、2000年までに発表されたアルバムはすべてベストセラーとなっている。
それは彼女の歌が、時代の波に乗って消費されるものではなく。流行とは関係なくその世界をじっくり味わうものとして、多くのリスナーに受け入れられていたということを意味している。その意味で岡村孝子は、あみん時代には果たせなかった、シンガー・ソングライターとしての姿勢を貫いていったアーティストと言えるのだと思う。
けれど、僕は岡村孝子の魅力には、実はもうひとつの側面もあるのだという気がしてならない。
アイドル的な脚光があてられることを嫌っていたけれど、実は岡村孝子はきわめてアイドル性の高い人なのではないかと思うのだ。
何度か彼女のライブを見たことがあるけれど、ステージ上の岡村孝子には清楚さとともに、仕草にしてもトークにしてもどこか素人っぽいぎこちなさがあった。けっして技巧で客席を圧倒したり過剰なアピールをすることもなく。淡々とステージが進んで行くうちに会場全体が優しい空気感に包まれていくという印象が強かった。どこか所在無げにも見えるステージ上の岡村孝子の佇まいには、この人は自分が支えなければダメだ、と感じさせる雰囲気が確実にあった。そう感じたのは、僕だけではないと思う。
「自分がこの人を支えなくては」とファンに思わせる。それはまさにアイドルの条件のひとつだ。岡村孝子は、自分では意図しないまま、優れたアイドル・オーラを発信していたんじゃないだろうか。
彼女のそんなたたずまいは、その音楽ともシンクロしていた。
岡村孝子が生粋のシンガー・ソングライターであることはいまさら言うまでもないし、その作品性も歌唱力もクオリティの高いものだ。けれど、その作品の多くには、どこか儚げで控えめな女性が主人公として描かれていた。その歌の世界の主人公は岡村孝子自身が発する透明なオーラとシンクロしていた。だから岡村孝子の歌の世界を、素の彼女からのメッセージだと思い込む人がいても不思議ではなかった。
それがリアルなのかフィクションなのか聴き手を惑わせてしまう。本来なら、それは作品を表現する力量として評価されるべきことなのだけれど、岡村孝子の場合、聴き手がその世界を、彼女自身と自分との関係と“思い込み”やすかったのではないかと言う気がする。そして、それもまた、アイドルに通じる彼女の資質だったんじゃないかと思う。
シンガー・ソングライターとしての作品世界を、意図せずに良質のアイドル性を秘めたパフォーマンスで表現することにより、聴き手がより深入りしたくなる魅力をもたらした。
そこが岡村孝子というアーティストの魅力のひとつの側面なのかもしれないと思う。
あみん「待つわ」岡村孝子「風は海から」「夢をあきらめないで」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
前田祥丈(まえだ・よしたけ):73年、風都市に参加。音楽スタッフを経て、編集者、ライター・インタビュアーとなる。音楽専門誌をはじめ、一般誌、単行本など、さまざまな出版物の制作・執筆を手掛けている。編著として『音楽王・細野晴臣物語』『YMO BOOK』『60年代フォークの時代』『ニューミュージックの時代』『明日の太鼓打ち』『今語る あの時 あの歌 きたやまおさむ』『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』など多数。
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