2016年03月16日
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2016年03月16日
今日はトワ・エ・モワ として、そしてもちろんソロ・シンガ-として幅広い活躍を続ける白鳥英美子の誕生日である。でも、僕が彼女を初めて知った時、苗字は山室だった。その横にいたのは芥川澄夫。ある日、「或る日突然」で突然音楽シ-ンに現われたこの二人…。でもいきなり大ヒットを飛ばしたということは、突然などではなく時代の必然だったのかもしれない。
すごく覚えているのはテレビで初めて彼らを観た時のことだ。脚の長い椅子にそれぞれ座り、そのまわりには観客達。とはいえスタジオでの一コマ。こういうシチュエ-ションてフ-テナニ-風とでも言えばいいのだろうか。観客との距離が近く、観客も一緒に音楽に参加出来そうな雰囲気だった。
そもそもトワ・エ・モワといえば、それぞれが実に説得力ある歌声の持ち主。アマチュアリズムが闊歩した70年前後に、針の穴に糸を通すかのような山室の確かな歌のピッチ、さらに二人で一緒に歌うと、彼女の女性らしさと芥川の男性らしさがより際立つかのような、そんな絶妙な“デュオ具合”にも大いに魅了されたものだった。
そしてやはり、二人といえば1972年の札幌オリンピック のテーマ曲、「虹と雪のバラード 」が思い出深い。この曲と、そして“銀盤の妖精”ジャネット・リンとが、僕の記憶の“氷室”の奥に今もセットで長期冷凍保存されている(もちろん当時のリンちゃんのこと、調べればいろいろ分かるんだろうけど、そんなことはしない。そんなことしたら記憶の“氷室”そのものが一瞬にして溶けてしまうからだ)。話を歌に戻す。「虹と雪のバラード」のサビの、トワ・エ・モワの二人の声の、単に混ざるというより今し方氷結したばかりの空気中の水蒸気が“擦れ合う”かのようなあの魅惑の聴感は、いま聴いても本当に素敵だ。
ところで…。白鳥英美子の誕生日に芥川澄夫の話で恐縮だが、いや、そもそも芥川澄夫と呼び捨てにするのにやや躊躇いがあるのは、のちにこの方が岡村孝子のプロデュ-サ-となってご活躍の際、僕は取材でたいへんお世話になったからである。なのでここからは芥川さんと書かせて頂く。
実は小学生の頃、半ズボンの僕はこの方にお目にかかっているのだ。こう書くと正式に面会したかのようだが、正直に書けば街中で“見掛けた”のだ。 あれは当時僕が住んでいた東急・目蒲線のとなりの駅。いきなり前方に憧れの大スタ-が出現したのだから、オヌキ少年の興奮は即座に沸点に達し、気づけばスタ-めがけて走り寄っていた。「あ、芥川さぁ~~~ん」。するとどうだろう。スタ-はダッシュしてその場を立ち去ってしまったのであった。
子供心に、いや子供だからこそ、ショックは大きなものだった。ただ、その後、あの時の顛末を思いだし、こうも考えた。僕が芥川さんだと思っていた人物は、背格好や髪型などは似てたけど、あかの他人だった、というケ-スである。そしてその彼は、当時、よく間違われていた。いちいち「違いますよ、似てるって言われるけど他人ですよ」などと対応するのも面倒くさいから、ダッシュして僕の前から立ち去った。大いにあり得る話ではないか。
あれからウン十年後…。岡村孝子の取材で芥川さんとご一緒した際に、思い切ってこの一件をご本人に訊ねてみた。すると…。芥川さんは覚えてはいなかった。そりゃそうだろう。あれだけの人気者だったしファンは大勢だし、街中でそんな状況、つまりファンが駆け寄ってくるなんてことは、しょっちゅうだったと思われる。でも、僕が東急・目蒲線の駅名を言ったところ…。「その辺りだったら、当時、歩いていたとしても不思議ではないけど…」。芥川さんはこう言った。だからといって、これだけではご本人だったという確証にまでは至らない。
トワ・エ・モワは、73年に活動を休止するが90年代末に再び歌い始めている。なにかの野外イベントで歌う姿を、僕はある日、テレビで観た。往年のヒット曲に混ざって、「ある愛の詩」のテ-マも披露された。これが本当に、心が震えるくらい素晴らしい歌唱だった。これだけの実力者である二人が、ある日突然音楽シ-ンに現われたことは、間違いなく「必然」だったのだろう。
写真提供:芽瑠璃堂
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