2019年04月10日
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2019年04月10日
1969年4月10日、加藤和彦の最初のソロ・シングル「僕のおもちゃ箱」が発表された。
「帰って来たヨッパライ」の大ヒットを受けて、1年間と期限を決めてプロ活動を行っていたザ・フォーク・クルセダーズは、1968年10月17日に大阪で最後のコンサートを行って解散した。はしだのりひこは、この時点ですでに次のグループ、シューベルツを結成し活動を始めていたが、きたやまおさむと加藤和彦は、次のステップを探るために海外に旅立った。
彼らが向かったのはまったく逆の方向だった。きたやまおさむはシベリア鉄道でヨーロッパに、そして加藤和彦はアメリカ西海岸のサンフランシスコを訪れた。
当時、サンフランシスコはハイトアシュベリーを中心にヒッピームーブメントの中心地であり、フィルモア・ウエストなどのライブハウスを中心に、刺激的な音楽やカルチャーが次々と発信されていた。まさに、音楽シーンの大きな転換点の中心地のひとつだった。
しかし当時の日本には、サンフランシスコを中心に新しい若者のムーブメントが起きているらしいという程度の表層的ニュースは伝わっていたけれど、海外シーンのリアルな状況はなかなか届かなかった。そんな時に、そのムーブメントのまっただ中に身を投じて、実際の空気を感じるということはきわめて刺激的で、誰もができるわけではない貴重な体験だった。
数ヵ月のアメリカ滞在から帰国した加藤和彦が、最初のソロ・シングルとして発表したのが「僕のおもちゃ箱」だった。
ザ・フォーク・クルセダーズは、それまで誰も思いつかなかったテーマ、そして音楽性を大胆に打ち出して、日本の音楽シーンに大きな風穴を開けた存在だった。同時に、カレッジフォークとアンダーグラウンドフォーク、さらにはロックなどの新しい音楽ムーブメントを、ひとつの大きなカルチャーとして結びつける存在でもあった。
そんな画期的存在だったザ・フォーク・クルセダーズの解散後、加藤和彦が果たしてどんな曲を発表するのか注目していた人たちにとって、「僕のおもちゃ箱」は、少しばかり物足りなく感じられたのではないかと思う。確かに、当時のカレッジフォークなどとは少し変わった雰囲気があったけれど、パッと聴いた印象としては、おとなしいフォーク調の曲という感じで、結果してヒットチャートでも上位を獲得するには至らなかった。
確かに、「僕のおもちゃ箱」は派手に人目を引くような曲ではない。作曲・加藤和彦、作詞・きたやまおさむは言うまでもないが、編曲のありたあきらも「イムジン河」「悲しくてやりきれない」の編曲を担当した、いわばザ・フォーク・クルセダーズのチームによって生み出されている。けれど、ザ・フォーク・クルセダーズの次のステップを模索している気配が強く感じられる曲でもある。
かなり後の話だけれど、この曲について聞いた時、加藤和彦は「ジム・ウェッブ的世界」と答えている。ジム・ウェッブは、後にインテリジェンスあふれるシンガー・ソングライターとして世界的に高い評価を得ることになる。しかし、この当時はフィフス・ディメンションの「ビートでジャンプ」(1967年)、グレン・キャンベルの「恋はフェニックス」(1967年)などのヒット曲を書いた新進ソングライターとしてアメリカで注目されていたが、日本ではほとんど知られていなかった。そんなアーティストにいち早く注目することができたのも、加藤和彦のセンスもさることながら、彼がアメリカの同時代の音楽シーンを実際に肌で体感していたことが大きかっただろう。
改めて聴き直してみると、浮遊感のあるメロディラインも印象的だけれど、間奏に出て来るフレーズに、ジム・ウェッブが書いたこの時点での最新ヒット曲、グレン・キャンベルの「ウィチタ・ラインマン」(1968年)の印象的な間奏フレーズが引用されていることにもニヤリとさせられる。
「僕のおもちゃ箱」は、加藤和彦がザ・フォーク・クルセダーズの次の一歩を踏み出すための試行錯誤の一環として発表された曲だった。しかし、大胆な音楽的実験精神が垣間見られはするものの、全体的にはザ・フォーク・クルセダーズの世界から大きく逸脱はしていない印象もある。憶測だけれど、それは加藤和彦自身の次の方向性がまだ定まっていなかったとともに、ザ・フォーク・クルセダーズの夢の続きを求めるレコード会社の方針との妥協の結果でもあったのではないかと思う。
そんな加藤和彦とレコード会社との方向性のズレは、同年12月に発表されたファーストアルバム『ぼくのそばにおいでよ』で顕在化した。加藤和彦はこの時、『児雷也』と題する2枚組アルバムをリリースする意向を持っていた。しかし2枚組アルバムという形式をレコード会社に拒否され、結果として『ぼくのそばにおいでよ』となった。加藤和彦はこの形でのリリースや選曲に納得していなかったが、アルバムジャケットに抗議文を掲載することで妥協した。「僕のおもちゃ箱」がこのアルバムに収録されたのも、レコード会社の意向だったという。
そういったエピソードも含めて、「僕のおもちゃ箱」そして『ぼくのそばにおいでよ』は、ザ・フォーク・クルセダーズ以降の加藤和彦の足跡を示すとともに、この時代のアーティストとレコード会社のユニークな関係を示す資料としての価値も貴重なものだと思う。
加藤和彦「僕のおもちゃ箱」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
前田祥丈(まえだ・よしたけ):73年、風都市に参加。音楽スタッフを経て、編集者、ライター・インタビュアーとなる。音楽専門誌をはじめ、一般誌、単行本など、さまざまな出版物の制作・執筆を手掛けている。編著として『音楽王・細野晴臣物語』『YMO BOOK』『60年代フォークの時代』『ニューミュージックの時代』『明日の太鼓打ち』『今語る あの時 あの歌 きたやまおさむ』『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』など多数。
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