2016年03月21日

「悲しくてやりきれない」制作秘話…当初、違和感のあったサビのフレーズ

執筆者:朝妻一郎

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シンガーソングライターのP.F.スローンは後にバリー・マクガイアの歌で大ヒットする「明日なき世界」を初めとして、「大人は知らない」(P.F.スローン自身でヒット)、「何のために」、「ディス・モーニン」、「エイント・ノー・ウエイ・アイム・ゴナ・チェンジ・マイ・マインド」という、彼のデビュー・アルバムの半分近い曲を殆ど同時に書き上げ、“あの夜、自分には神が宿っていた”と語っているが、48年前の我々にも、困っている我々を助けようと、神様がついていたに違いない、と思えるのだ。


「帰って来たヨッパライ」の次のシングル盤に予定していたフォーク・クルセダーズの「イムジン河」が突然発売中止という事になって、急遽それに代わる次回作を作らなければならないことになった。


コミック風な「帰って来たヨッパライ」とは敢えて雰囲気の違った「イムジン河」を二作目にと考えていた我々は、当然のごとく「イムジン河」の流れを継ぐ曲調のものしか頭になく、加藤和彦に”この曲に負けない良い曲を至急書いてくれ!!“と頼んだ。


デスク机が、四つも入ればいっぱいになってしまうニッポン放送の5階の奥にあったパシフィック音楽出版(PMP現フジパシフィックミュージック)の小さなオフィスでは加藤君がギターを弾く場所がなく、落ち着いて曲作りが出来るようにと、やはり5階にあったニッポン放送の常務で当時PMPの社長だった石田達郎さんの部屋に押し込めた。


数時間後(多分3~4時間だったと思う)“これでどうですか?”と言いながら加藤君が石田さんの部屋に我々を呼び込んで、出来上がったメロディーを弾いて聞かせてくれた。注文通りの哀愁のある良いメロディーだった。


曲は加藤和彦で、詞はサトウハチローさんで、というのはニッポン放送の人気DJであると同時にPMPの専務も務めていた高崎一郎さんのアイデアで、加藤君の曲を聞いた高崎さんはすぐさま加藤君と共にサトウハチローさんのお宅に伺い、詞を依頼している。


数日後“おいサトウ先生から詞が上がって来たぞ!”と高崎さんから、サトウハチローさんの手書きの原稿を手渡された。どんな素晴らしい詞なのだろう、と期待しながら読んでみると、”悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない“というフレーズが、なんとなく違和感があってすとんと納得出来なかった。


しかし、発売日は迫っていているし、たとえ日にちに余裕があったとしてもサトウハチロー先生に書き直しをお願いすることなど可能なのかどうかを考えることさえ入社2年目の自分には恐れ多く感じられたため、完全に満足しないままに録音に臨んだ。


ところが、「イムジン河」と同じくありたあきら(小杉仁三さんのペンネーム)さんが編曲したオケをバックに加藤君が歌を入れ出すと、あの目で読んでいて違和感のあった”悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない“という部分が見事に聞く者の胸にスッと入って来たのだ。書き直しなどお願いしないで良かった、という安堵の思いと、さすがサトウハチローさんだ、という大御所の力量に感動する、得難い体験をすることになった。


録音は1968年2月24日、有楽町のニッポン放送の3階にあった第一スタジオで行われ、1ヶ月も経たない3月21日にシングル盤が発売された。

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