2019年07月10日

1968年7月10日、ザ・フォーク・クルセダーズの『紀元弐阡年』がリリース

執筆者:サエキけんぞう

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1968年、7月10日に発売されたザ・フォーク・クルセダーズの『紀元弐阡年』は日本で初めてのコンセプチュアルな、ロック的アルバムである。そしてその誕生には、加藤和彦の生涯数度にわたる大きな「変身」が鍵になっていたことが、加藤の死後、明らかになった。2009年の加藤没後の翌年に開かれた北山修のイベントで、1967年10月1日のザ・フォーク・クルセダーズ第一次解散コンサートの写真が披露されたのだが、そこにはその後のファンが見たことのない、牛乳瓶のふたのような黒縁眼鏡をかけた加藤が写っていた。それはその後、加藤、北山両者が額装して大切に保存していた写真だったが、恐らく、当時の関係者と観客以外は知らなかった姿だった。


1965年に加藤、北山と、平沼義男によって京都で結成された、学生アマチュア・フォーク・バンドであったザ・フォーク・クルセダーズ(以下、フォークル)は、ピーター・ポール&マリーなど、勃興する米フォーク・ブームを受け、学生ながらになかなかの活躍をした。ロックがほとんど日本の若者の視野になかった60年代中盤に、フォークはサブカルチャーの萌芽だった。


医学生だった北山を含め、卒業を控えて解散を決めた第一次フォークルは、記念に自主制作30センチレコードアルバム『ハレンチ』を録音。そこに300万枚を売り上げることになる「帰って来たヨッパライ」が含まれていた。それは多くの人にとって聞いたことのない、回転数を変えたケロケロ声のボーカルで歌われ、勃興する学生運動や深夜放送の季節に、明らかに既成の流行歌にない特異な響きを持っていた。


1967年10月15日に自主レコードが完成、11月8日にラジオ関西「電話リクエスト」で「帰って来たヨッパライ」がオンエアされ、大反響が起こり、大きな火が付いた同曲は、すぐにレコード会社の争奪戦が起こった。結局、レコード会社はビートルズのいた東芝レコードで、担当もビートルズを日本に広めた功労者ともいえる高嶋弘之が務めることになった。テープの回転速度を速めたケロケロ声のボーカルを「デビッド・セビルかチップ・マンクスのようだ」と感想を持った博学の朝妻一郎の目にとまり、原盤は同氏が勤め始めていたパシフィック音楽出版(現、フジパシフィックミュージック) が担当することになった。コックになることも考えていた加藤和彦は、進路に悩んだ。


北山修は語る。親から英才教育的なものを受け、大きな期待を背負った加藤は、一方で人よりも長身だった。「普通の人よりも何倍もの変化を自分の身体の中で経験していて居心地が悪くて仕方がなかった。どんな風に収まりをつけるかという戦いをしていたんだと思う」と。


才能にも溢れていた自我の奔流をどうアウトプットするか? それは芸術家加藤和彦の生涯のテーマになったと思われる。その結果、1967年10月から12月という短期間の間に、加藤は牛乳瓶の底の眼鏡と横分けの、典型的な学生風ルックスを捨て、あか抜けた長髪仕様となった。そしてグループサウンズ・ブーム時に、それらのボーカリスト達にも引けを取らないアイドルにもなっていくのである。


67年12月、シングル「帰って来たヨッパライ」が発売、毎日数万枚の注文が来るメガ・ヒットとなる。解散を決めていたフォークルは、平沼義男の代わりに端田宜彦を加え、1年間の限定で東京での活動を開始することになった。


洋楽評論家、木崎義二の紹介により、東京に進出、深夜ラジオ「オール・ナイト・ニッポン」では、一晩に2回も3回もかかる「ヘビー・ローテーション」状態に突入した。「帰って来たヨッパライ」は68年初頭にはグループサウンズ楽曲をもしのぐ存在感を獲得する特大ヒットとなった。


続いて、高嶋の気に入っていたフォークルが学生時代から歌っていた北朝鮮の反戦歌「イムジン河」のリリースが企画された。しかしレコード会社の「政治的配慮」から発売中止を決定することになった。急遽、サトウ・ハチローを作詞に起用して「悲しくてやりきれない」を68年3月にリリース。「帰って来たヨッパライ」とは全く違う叙情フォークのヒットとなった。全くさらに7月1日にザ・ズートルビーという名義でベートーベンの「田園」をイントロに使ったコミカルに感傷的な「水虫の唄」を発売。フォークルは得体のしれない音楽性の幅を見せ、それはビートルズのシングルのように予断を許さなかった。


そしてそれらを含み、7月10日に発売された『紀元弐阡年』は、ゴシック調の暗く妖しいサウンドを持つ「ドラキュラの恋」や、加藤の耽美的で欧風なメロディーの原点ともいえる「オーブル街」、カリプソ的な「レディー・ジェーンの伝説」など、各曲それぞれに奇想天外な魅力の詰まった極めて魅力的なアルバムになった。得意なフォーク・カントリー調の鮮やかな『紀元弐阡年』で軽快に始まるその世界は、おざなりに作られた歌謡曲のアルバムと違い、中身がぎっしりと詰まって構成されたトータルアルバム仕様。満足度はビートルズの『リヴォルヴァー』にもヒケをとらなかった。


加藤のメモにはサイケを意識したジャケットのデザイン案があるが、それも含め、全体にビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 』のイメージを意識していたことは間違いないと思う。しかし、自分の記憶によれば、シングル・カットもなく、おとなしめの曲が多い『サージェント~』は日本ではそれほど話題になっていなかった。曲の粒ぞろいのインパクトからいえば当時の日本人にとって『サージェント~』をしのいでいたのは間違いない。


68年10月に、フォークルは約束通り1年間の活動を終え、北山はシベリア回りでヨーロッパに旅立つ。


端田宜彦は、カレッジ・フォークの旗手達とはしだのりひことシューベルツを結成し69年1月「風」を大ヒットさせる。


加藤和彦はアコースティックなソロ・アーティストとして69年4月にシングル「僕のおもちゃ箱」を、12月にアルバム『ぼくのそばにおいでよ(COME TO MY BEDSIDE)』をリリース。


そして1972年には髪の毛を染め、エレキ・ギターに持ち替え、第二の変身を遂げ、サディスティック・ミカ・バンドとして再スタートを切る。


加藤がルックスと共に人生を転換させる「変身」は、その後も安井かずみとの結婚など、終生続けられることになる。『紀元弐阡年』をはじめとした、透徹した才能が生かされた作品群は、加藤の「変身」への確固たる意志を前提に紐解くと、理解の助けになるであろう。それは、彼の長身のように度外れた才能をしっかりと形にするためには、作曲、演奏にとどまってはいけない、自らの外見と存在感を作品に同化しなければならないという決意である。それは日本におけるポップ芸術の確かな降誕であった。

ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」『紀元弐阡年 』はしだのりひことシューベルツ「風」加藤和彦「僕のおもちゃ箱」サディスティック・ミカ・バンド『黒船』ジャケット撮影協力:鈴木啓


≪著者略歴≫ 
サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。『未来はパール』など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2010年、ハルメンズ30周年『21世紀さんsingsハルメンズ』『初音ミクsingsハルメンズ』ほか計5作品を同時発表。2016年パール兄弟デビュー30周年記念ライヴ、ライヴ盤制作。ハルメンズX『35世紀』(ビクター)2017年10月、「ジョリッツ登場」(ハルメンズの弟バンド)リリース。中村俊夫との共著『エッジィな男ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)を上梓。2018年4月パール兄弟『馬のように』、11月ジョリッツ2nd『ジョリッツ暴発』リリース。2019年6月パール兄弟『歩きラブ』リリース 。
ハレンチ 2017REMASTER ザ・フォーク・クルセダーズ 2017/10/31

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