2016年11月01日
スポンサーリンク
2016年11月01日
この前年1967年末に突如世に出たフォークルの「帰って来たヨッパライ」は日本中を席捲!前代未聞の売り上げを示し、物心つかない子供にまで一遍に浸透。嬉々として歌う子供に眉をひそめた親もまた、つい「オラは死んじまっただ~♪」と口ずさむ有様。
のみならず、例えば団伊玖磨、三島由紀夫、北杜夫、田辺茂一、一柳慧、石堂淑朗らを始めとして当時の名だたる文化人や学者などから絶賛され、大マジメに議論もされたのだから、もはや社会現象。ロック詩人がノーベル賞に決まった今みたいな盛り上がりだった、のかな~。
メンバーの核だった北山修と加藤和彦が1946年~47年早生まれの、「戦争を知らない子供たち」1年生であったことも象徴的で、アマチュア学生によって面白がって作り上げられた自主製作音源が旧来のレコード会社の製品を圧倒的に凌駕して商業的かつ文化的に認められたことは、真の意味での日本のニュー・ミュージックの起源だったはず。
奇想天外なだけではないフォークルの二面性を示す次のシングル「イムジン河」が政治的な問題ゆえに直前で発売中止となった経緯も社会的な話題を呼び、また映画出演やレギュラーTV番組のホストも務めるなど八面六臂の活動ぶりだったが、肝心の音楽面では1968年7月に大半をメンバー自作曲で構成したアルバム『紀元弐阡年』をリリース。これは1年前に発表されて世界中に大きな影響をもたらしたビートルズのトータル・コンセプト・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に呼応した日本における初の成果とも評価された。
その発売と時を同じくして『当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)』と題されたコンサートも開催。これまた画期的だったステージの模様を収録したレコードは11月1日に発売されたが、すでに10月いっぱいでフォークルは(当初の予定通り)解散していたのだから、そのスピードと密度は凄まじい。まさしく、時代を一気に駆け抜けて多大なる影響と成果を遺したのである(さらに、解散後も各メンバーの活躍は続いた)。
もっとも、このアルバムではLP1枚に収めるために『紀元弐阡年』のオリジナル曲のほとんどが外されているので、その音楽性の全貌が伝わり切らないのが惜しい。当時の勢いならば2枚組も可能だったと思われるけれど、レコードに付属していた台本で補うと、まず歌舞伎の如き口上で始まり、軽く歌でつなぎつつ、長谷川伸の大衆時代劇風コント、「漫画トリオ」の漫才物真似、水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」のパロディ、一転してジャックスの「からっぽの世界」なども取り込んだ独自の音楽ワールドを展開、スライドなどのビジュアル、効果音やナレーションも駆使、反戦メッセージも強烈に訴えて第1部終了。
第2部は変名の「ズートルビー」として登場するセルフ・ゲスト・タイムから、その話題では無いのに「国会議員いねむり」などの写真が背景に映される複層的なトーク・コーナー、「らくだ」「ヘビ」「きつね」「たぬき」「カエル」と各々仕掛けのある動物ソング連打、そして中国手品ギャグで大騒ぎした後はアマチュア時代を思わせる海外曲の自らの訳詞カヴァーや日本民謡の歌唱を経て、余韻を残す静かなエンディング…。
と書いただけで、これぞフォークルと言える硬軟取り交ぜた盛りだくさんのステージだったことが分かるが、コミカルな寸劇部分も無理に演じている感は微塵も無く(特にピンチヒッターで新メンバーとなった端田宣彦のタレント性が貢献度大)、届けたいことを自分たちも楽しみながら縦横無尽に表現している様がダイレクトに観客に伝わって、当時全盛だったグループサウンズのジュリーやショーケンに放たれていたような女性の歓声も飛び交い、併せて場内大爆笑となる反応も圧巻。
ところどころ百聞は一見にしかずと思われる部分もあるので、ジャケットに掲載されたステージ写真に目を凝らすことにもなるのだが、このベタ焼きフィルムを何本も並列したデザインと、後年のザ・タイガースのシングル「君を許す/ラヴ・ラヴ・ラヴ」および(フォークルと同じく解散直後に発売された)ライヴ・アルバム『サウンズ・イン・コロシアム』のデザインは瓜二つ。フォークルのデザイナーはメンバーの幼なじみだった廣野勝、タイガースの方はレコード会社(日本グラモフォン)専属だった廣野展生。ありふれた姓でも無いのに同一とは!(ちなみに2人とも当時は「広野」表記)
それぞれのイメージやスタンス、ファン層などは対照的だったにしても、同じ京都出身でメンバーの大半が同じ学年、結成されたのも同じ1965年、そして特にこの1968年には若者音楽界の最先端を併走していた2大グループ。それぞれが「日本のビートルズ」とも呼ばれたとはいえ当時お互いの直接の交流はほとんど無かったようだが、偶然か必然か、結果的にアレコレ重なる点も多かったフォークルとタイガースらしいエピソードがここにも。
1969年4月10日、加藤和彦のソロ・シングル「僕のおもちゃ箱」が発表された。「帰って来たヨッパライ」の大ヒットを受けて、1年間と期限を決めてプロ活動を行っていたザ・フォーク・クルセダーズは、1...
ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が深夜放送で火がつき話題となり、東芝音楽工業から発売されることとなる。その大ヒットを受け、加藤和彦と北山修は一年間だけという条件でプロ活動を開...
古い世代なら、ギターを片手に歌った「ひとり寝の子守唄」を覚えているだろう。この曲で加藤登紀子は69年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。その後の71年の「知床旅情」のヒットもあり、”フォークの...
本日、8月13日はフォーク・クルセダーズ(フォークル)やサディスティック・ミカ・バンドの陰のメンバーと呼ばれ、その後は雑誌編集者、ライター、特に「時計王」として世界的にも知られる松山猛の誕生日。...
北山修が詞を書き、それに杉田二郎が曲を付けた「戦争を知らない子供たち」は、1970年大阪万博の音楽祭で北山の司会により集団歌唱されたものが同年にレコード化もされていたが、ジローズ(第二次となる杉...
1971年(昭和46年)の本日4月5日は、加藤和彦・北山修のシングル「あの素晴しい愛をもう一度」がリリースされた日である。フォークルセダースが解散してからの2年間、加藤和彦は様々な方法論でより斬...
1976年12月20日、加藤和彦のサードアルバム『それから先のことは…』が発売された。前の年、彼はサディスティック・ミカ・バンドでイギリス・ツアーを実現していたが、その成功の代償でもあるかのよう...
1971年10月5日、加藤和彦のセカンド・ソロ・アルバム『スーパー・ガス』がリリースされた。CSN&Yなどの洗練されたアンサンブルや、カントリー、トラッドなど、アメリカやイギリスの最新サウンドト...
フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」を初めて聴いたのはオールナイトニッポンだった。この番組はパック・イン・ミュージック(TBSラジオ)とともに深夜放送の草分け的な番組で中高生の間では絶...
今から42年前の今日1974年5月30日に完成したサディスティック・ミカ・バンドの歴史的名盤『黒船』は、幕末の黒船来航をモチーフに「東洋と西洋の出会い」をテーマとしたコンセプト・アルバムで、その...
「帰って来たヨッパライ」の次のシングル盤に予定していたフォーク・クルセダーズの「イムジン河」が突然発売中止という事になって、急遽それに代わる次回作を作らなければならないことになった。1968年2...
大ヒットとなったフォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾はコンサートでも人気の高かった「イムジン河」に決定。その発表は1968年2月19日に行われた「帰って来たヨッパライ」20...
当時のパシフィック音楽出版がいかにしてフォーク・クルセダース「帰って来たヨッパライ」の原盤の権利を確保したか…。48年後に明かされるその原盤権獲得秘話。 text by 朝妻一郎
10月16日、加藤和彦がこの世を去った日。敬愛していたアーネスト・ヘミングウェイの生き方に倣ったかのように彼が人生を閉じてから、もう7年が経つ。 text by 前田祥丈
「水虫の唄」はザ・フォーク・クルセダーズがザ・ズートルビーと名乗って発表した3枚目のシングルだ。どんなに離れていても君のことが忘れられない、というカレッジ・フォーク、ポップス調のラヴ・ソング。そ...
本日、6月19日は北山修の誕生日。1946年生まれであるから69歳となる。 1967年暮れに突如出現して巷を席巻することになった「帰って来たヨッパライ」は、京都の大学生によるアマチュアのフォーク...
1967年に彗星のごとく突如現れ、たった1年で消えていったバンドがある。ザ・フォーク・クルセダーズ。森川欣信によるコラム。