2019年06月05日
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2019年06月05日
1971年にデビュー、「グッド・バイ・マイ・ラブ」「ラ・セゾン」「六本木心中」など数多くのヒットを持ち、長期間にわたる活躍とともに、多くのファンに愛されたシンガー、アン・ルイス。本日6月5日は歌手アン・ルイスの誕生日。
アン・ルイスは1956年6月5日、神戸に生まれた。本名アン・リンダ・ルイス。父は米国海軍の軍人で母は日本人。その後横浜・本牧のベイサイドコート(米海軍住宅地)で育ち、14歳のときにスカウトされ、作詞家なかにし礼の事務所「なかにし礼商会」に所属した。ほどなく「なかにし礼商会」が解散することになり、渡辺プロダクション傘下の「サンズ」に移る。サンズは、西城秀樹や安西マリアらをスカウトした、業界では有名なスカウトマンの上条英男が、現在イザワオフィスの代表である井澤健とともに立ち上げた事務所で、この当時はゴールデン・ハーフ、小山ルミらが所属していた。上条によれば、当初アンをゴールデン・ハーフのメンバーに加えようと考えたが、なかにしが「彼女は自分が育てたい」というので諦めたそうである。
71年2月25日にビクターから「白い週末」で歌手デビュー。この曲は札幌オリンピックのプレ・オリンピックのテーマソングだった。開催前にスポンサーが数社集まり、「白い週末」というキャンペーンを行ったその一環で作られたイメージソングである。スポンサーの1社である東レのCMにも彼女は出演した。
この時代、芸能界はハーフの女性タレントが数多く活躍していた。だが、アンは自分がハーフであることを気にしていたという。彼女より上の世代のハーフの女性タレントたちは、父親が兵隊でアメリカに帰ってしまい母親だけの子が多く、アンもデビューした頃、周囲の大人から「お父さんはいるの?」と必ず聞かれたそうである。ハーフの女の子に遊び人のイメージがついて回った時代でもあり、そこを気にして「いい子」にふるまっていたという。
この「遊び人イメージ」と「実はいい子」の二面性は、歌手アン・ルイスを考える上で重要だ。アンのキャリアを振り返ると、デビューから数年間は、バラードを丁寧に歌う清純派シンガーのイメージで、78年5月5日リリースの「女はそれを我慢できない」で突如としてやさぐれ歌謡ロックの道を歩んでからは、ぶっ飛んだキャラの自由奔放な女性という印象が強くなっている。キャラクター・イメージを180度変えてしまった「女はそれを我慢できない」を境に、以降はその路線を邁進したが、実はその甘い声質とヴォーカル・スタイルも、多くのアーティストが高く評価していたのである。
アン・ルイスのキャリアは大きく3つに分けられる。初期はもちろん、「グッド・バイ・マイ・ラブ」を代表とする清楚なバラードシンガー期。中期は松任谷由実、山下達郎、竹内まりやらポップス系のアーティストたちが次々に楽曲提供していた時代。そして「六本木心中」以降の、ぶっ飛んだ遊び人イメージかつ女性の自立心を強く訴えていくハードなロック歌謡時代である。そして一番注目しておきたいのが、中期の豪華メンバーによる時代だ。
初期の作品群に象徴されるとおり、もともとアン・ルイスはきれいな声質をもったシンガーだ。初期の代表作「グッド・バイ・マイ・ラブ」にしても、平尾昌晃の流麗なバラードに、美しい言葉が並ぶなかにし礼の切ない詞を、甘いヴォーカルで切々と歌ったことがヒットに結びついている。だが、アン自身は、与えられた曲を歌うだけでは飽き足らなくなっていた。もともとロック少女だった彼女は、このままバラードばかり歌う歌手になってしまうのかという不安もあったと語っている。
そんな時に、彼女のスタッフが、雑誌に掲載されていた荒井由実のインタビューを目にとめた。「誰に曲を書きたい?」という質問に対しユーミンは「アン・ルイスと欧陽菲菲に書きたい」と発言していたのである。そこでユーミンに楽曲を依頼し、完成したのが77年8月5日発売の「甘い予感」。この時、アンはユーミンのレコーディング風景を見学に行き、ユーミンがブースに入りオケを録る姿を見て、これが音楽の作り方なんだと思った。そして、これ以降の彼女は、歌に自分の意見を入れるようになっていく。デビュー6年目にして、アーティスト意識に目覚めた瞬間でもあった。
それ以後、本人曰く「可愛い子ちゃん歌手のイメージを捨てたくて」女ジュリーをやろうと、沢田研二の曲を数多く書いていた加瀬邦彦に依頼し、「女はそれを我慢できない」が誕生した。以降、加瀬邦彦による歌謡ロック路線がさらにエスカレートして82年6月5日発売の「ラ・セゾン」では、ついに本家ジュリーが作曲。しかも作詞は三浦百恵である。百恵は既に芸能界を引退していたが、友人だったアンのために作詞を快諾したという。この曲はオリコン3位まで上昇する彼女最大のヒットとなったが、続いて83年2月21日にはマージ―ビートの旗手NOBODYと組んで傑作「LUV-YA」を発表。翌月にリリースしたアルバム『HEAVY MOON』ではCharがプロデュース、ジョニー吉長やルイズルイス加部らピンク・クラウドの面々がバックをつとめ、Charの「NAVY BLUE」までカヴァーしている。84年5月1日リリースの23作目「薔薇の奇蹟」は柴山俊之=大沢誉志幸=伊藤銀次のトリオによるSM歌謡ロックで、TVパフォーマンスの過激さが話題になった。
こういった歌謡ロック路線の一方で、79年12月25日には吉田美奈子=山下達郎と組んだ和製ディスコの傑作「恋のブギ・ウギ・トレイン」を発表。これもまたアンと達郎が「16ビートのディスコをやろう!」と意気投合して完成した楽曲である。フロアでも頻繁にかかるようになり、英語バージョンも作られることとなった。達郎は同年8月のアルバム『PINK PUSSY CAT』にもシンプルなバラード「シャンプー」を提供。さらに80年8月5日発売の「リンダ」は竹内まりやがアンと桑名正博の結婚記念に提供した三連ロッカバラード。ユーミン、達郎、まりやの提供曲は、アンのきれいな声質を最大限に活かしたスウィートなナンバーなのだ。
ドリーミーなオールディーズ風ナンバーの表現者としてアン・ルイスが最もふさわしいというのは、彼らアーティストたちの共通認識だったのではなかろうか。そして、大瀧詠一によるナイアガラ・ガール・ポップの傑作「夢で逢えたら」も、当初はアン・ルイスに提供する予定の楽曲だった。アンと大瀧は花王ドレッサーのCMで歌手と作曲者という関係で出会い、これがきっかけで「夢で逢えたら」が作られたが、アンでのリリースは見送られた。その後、吉田美奈子やシリア・ポールによって歌われたのち、82年2月21日発売のアルバム『CHEEKⅡ』で、「DREAMS」のタイトルでアンによって英語詞で歌われることとなる。この『CHEEK』はスウィート&メロウなオールディーズ・カヴァーのアルバム・シリーズで、都合4作が作られている。声質だけを考えるなら、やはり甘いバラードは彼女の資質に合ったものなのだ。
それにしても、大瀧詠一、山下達郎、伊藤銀次とナイアガラ・トライアングルVOL.1のメンバー全員が彼女の作品に関わっていたことは興味深い。アン・ルイスは単に歌謡ロックを標榜するだけでなく、歌謡曲側と自作自演系のロック・ポップス側との橋渡し役でもあった。また「甘い予感」「リンダ」「シャンプー」はそれぞれ作者自身がセルフ・カヴァーしており、「恋のブギ・ウギ・トレイン」も現在では達郎のコンサートでアンコールの定番曲となっている。「夢で逢えたら」もその後のカヴァーの多さを考えるに、アンへの提供曲は、いずれも一線級のアーティストたちが力を入れて書いた曲であったことが証明されている。
歌謡ロック的な路線をさらに推し進めたのが、「六本木心中」「ああ無情」「WOMAN」といった80年代後期の傑作群で、この頃にはOL層の支持が厚く、いずれもカラオケの定番曲として多くの人々に親しまれた。「兵どもが夢のあと」というフレーズが象徴している通り、普通なかなか歌になりそうもない言い回しを歌詞に投入してくるのがこの時期のアン・ルイス作品の特徴で、それが独自の「乾いた切なさ」を表現している。こういう世界観はアン・ルイス以外には考えられない。実に得難いキャラクターのシンガーだったことがお分かりだろう。
アン・ルイスはきれいな声質でありながら、湿度の低い独特のヴォーカルの持ち主であった。ゆえに歌謡曲を歌ってもベタつかない。それを証明しているのが、近年ようやく復刻された、72年2月5日発売のファースト・アルバム『雨の御堂筋/アン・ルイス・ベンチャーズ・ヒットを歌う』で、ここでのアンは普通の歌謡曲ではなくベンチャーズ歌謡を歌っている。「外国人の作った日本の歌謡曲」を表現するのに、その声はうってつけだと思わせる出来なのだ。そしてアンの歌謡曲カヴァーでは、78年にビクターが発表した阿久悠の作詞活動10周年記念盤『君の唇に色あせぬ言葉を』がある。ビクター所属の歌手たちが、阿久悠がビクター以外のメーカーに提供したヒット曲を歌う、という企画盤で、アン・ルイスは夏木マリ「絹の靴下」「お手やわらかに」研ナオコ「うわさの男」の3曲をカヴァーしている。白眉は「絹の靴下」で、きれいな声質+ドライな歌いっぷりに艶っぽさも加わり、キメの「もうーいやぁー」の発声など、見事なまでの解釈で、一聴をおすすめしたい。この「乾いた切なさ」は誰にも真似のできない、アン・ルイス独自の世界で、それが「グッド・バイ・マイ・ラブ」と「六本木心中」の両方を成立させた、ワン・アンド・オンリーの個性だったのだ。
アン・ルイス「白い週末」「グッド・バイ・マイ・ラブ」「甘い予感」「女はそれを我慢できない」「ラ・セゾン」「恋のブギ・ウギ・トレイン」「六本木心中」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。近著に『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(シンコーミュージック)、構成を担当した『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』(リットーミュージック)がある。
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