2015年08月01日

URCレコード、市販第1回配布。岡林信康『岡林信康フォーク・アルバム第一集~わたしを断絶せよ』/五つの赤い風船『おとぎばなし』

執筆者:小倉エージ

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1969年8月1日、会員組織による配布に限られていたURCレコードが、一般販売を開始した。とはいえ、従来のレコードの流通ルートではなく、URCが販売を委託した特約店での販売に限られていた。発表されたのは『岡林信康フォーク・アルバム第一集~わたしを断罪せよ』(URL-1007)と五つの赤い風船の『おとぎばなし』(URL-1008)の2枚のアルバムだ。


岡林信康は1967年11月滋賀県草津市のキリスト教会で開かれた高石友也の反戦フォーク集会に飛び入り出演し、はじめて人前で自作の「がいこつの歌」と「くそくらえ節」を歌って以来、その存在は口コミで広まり、ラジオ出演などをきっかけに〝新しい歌〟を求めていた関西のフォーク・ファンの間で知られていった。
68年3月に「アンダーグラウンド音楽祭」でプロ・デビュー。5月には高石音楽事務所(後の音楽舎)に所属。さらに6月には「くそくらえ節」を改題した「ほんじゃまあ、おじゃまします」でのレコード・デビューが決定し録音までしていたものの、レコ倫(レコード協会のレコード制作基準倫理委員会)から歌詞の一部について勧告を受け、発売中止を余儀なくされた。


それこそURCレコード発足の一端となったものだが、当初、B面として予定されていた「山谷ブルース」がデビュー曲として9月に発表された。次いで「流れ者/チューリップのアップリケ」を発表。が、当初はB面曲で部落解放運動の本から知り岡林が詞を加筆し作曲した「チューリップのアップリケ」が話題となり、A,B面を入れ替えて再発売された。
「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」のいずれも哀愁を帯びたメロディーを持ち、丹念に切々と歌う岡林の歌唱は聴く者の心を打った。幅広い大衆に訴えかけ、時代を超えても説得力をもつ普遍的な魅力を持ち合わせた作品であり、作詞、作曲家、歌手、いわばシンガー=ソング・ライターとしての岡林が持つ才能と魅力を明らかにする代表曲だ。


一方で、政治家を揶揄し、社会批判、体制批判を直接的に表現した「くそくらえ節」、「がいこつの歌」、あるいはフォーク・クルセダーズの北山修の翻訳を発端に岡林が加筆した「ヘライデ」、替え歌メロディーの「アメリカちゃん」など、諧謔性、と言うよりも関西人特有の「おちょくり」を発揮したコミカル・ソングであり、より辛辣な歌詞を持った作品も岡林の存在を印象付け、やがて「反戦フォークの旗手」として語られる要因ともなる。


メジャー・レーベルのビクターからデビューした岡林だが、URCからはレコ倫から干渉されない作品を発表していった。69年4月には第3回の会員配布盤としてデビュー曲となるはずだった「くそくらえ節」と「ガイコツの唄」、同時に69年3月の「あんぐら音楽祭、岡林信康リサイタル」のライヴ音源をもとに「休みの国/岡林信康リサイタル」のカップリング・アルバムも発表。『岡林信康フォーク・アルバム第一集~わたしを断罪せよ』はそれに続くものだった。


アルバムの幕開けを飾ったのは「今日をこえて」。親、すなわち旧態依然とした価値観を「昨日」として反抗し、それを超える「今日」をめざしながら、自身も「親」になれば乗り越えられる「昨日」としてしか存在しえない。そういう意味で親を愛したい、いつのまにか自分も「昨日」になってしまった空しさを感じる。そんな気持ちを込めた歌だと岡林は触れている。
そうした岡林信康自身の自問の歌であると同時に、「フォークの神様」と語られるようになった岡林を取り巻く周辺、自身の存在とその現実との焦燥や葛藤の意味あいなども汲み取れる作品だ。「それで自由になったのかい」も同様の意味が汲み取れるものであり、同曲の再録音を発端にロックへの転身をはかることになったのは興味深い。


それら「今日をこえて」、「それで自由になったのかい」の2曲ともジャックスからのメンバーが参加したロック・スタイルによる。「今日をこえて」はボブ・ディランの「ラブ・マイナス・ゼロ」を下敷きにし、つのだひろのドラムスこそ派手だが、全体は抑制の効いたフォーク・ロック的なものであり、ブルース・ラングホーンのスタイルを基本に、ジュディ・コリンズの「サムデイ・スーン」におけるジェイムス・バートンのリフなども織り込んだ中川イサトのギター演奏が耳をひく。岡林自身の歌も丹念で控えめだ。

一方、「それで自由になったのかい」のアレンジはすでにディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」の面影があり、ロック色も濃く、岡林信康の歌唱もまさにシャウトというにふさわしい。この頃、岡林信康はすでに「変化」の時を迎えていたことを物語る。
後にニュ・ミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)において日本のロック賞の1位に選出された理由のひとつがそこにあった。


「ランブリン・ボーイ」、「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」、「戦争の親玉」は岡林信康にとってフォークの師だった高石友也のレパートリーに取り組んだものだが、同時に当時の関西フォークにおける「歌」の在り方を物語る。
当時、オリジナル作品が数多く生まれるまで、日本の民謡、添田唖禅坊の演歌、童謡などから意味ある歌が取り上げられて新たな解釈によって歌われた。なかでもアメリカでのモダン・フォークの登場とともに掘り起こされたフォークの伝統曲、同時にボブ・ディランはじめ自作自演の歌手達によるオリジナルを翻訳して歌うことが盛んに行われ、関西フォークの隆盛の一端を担っていた。


大半を占めていたのはアメリカでの公民権運動、やがて日本をはじめ世界中に飛び火したベトナム反戦運動や反体制運動を背景にしたトピカル・ソング、プロテスト・ソングであり、それらに刺激、触発されたオリジナルが日本でも生まれる下地となった。
その先鞭をつけたのが高石友也だ。
高石友也が訳し、歌った作品は、新たな翻訳歌の誕生を促すことになる。なかでも「腰まで泥まみれ」などの反戦歌を積極的に翻訳し、取り上げてきた中川五郎の存在も見逃せない。それらは新しい歌の登場を待ち望んでいた人々によって歌い広められていった。そうした歌の共有こそは初期の関西フォークに特徴的なものであり、『わたしを断罪せよ』もまたそれを反映したものだった。


満州事変を背景に生まれていたサトウハチロー、徳富繁による「モズが枯れ木」もそうした作品のひとつだ。さらに「お父帰れや」は歌声運動を背景に生まれたものだが、先に高石友也が歌ってきたものとは異なり、岡林のそれは白井道夫による加筆、改変された歌詞、真木淑夫によってメロディーが改められたもので、その背景には複雑な事情が介在する。


それ以上に岡林の存在を印象付けたのは改めて取り上げられた「山谷ブルース」、部落問題研究所発行の本から見つけ出した詩に岡林がメロディーを付けて歌った「手紙」だった。そして岡林自身が作詞、作曲し、フォーク・キャンパーズの鈴木孝雄が協力した「友よ」は「勝利を我らに/We Shall Over Come」にとって代わる歌としてフォーク集会、フォーク・コンサートで歌われることになる。


「戦争の親玉」や「それで自由になったのかい」における岡林信康の直接的な叫びの一方で、「ランブリン・ボーイ」や「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」での独自の解釈、「もずが枯れ木で」や「お父帰れや」、それにも増して「山谷ブルース」、「手紙」での丹念で真摯な歌への取り組み。哀愁味を帯びたメロディーと感傷的な印象を与える岡林の歌の表情が多くの人の心を打った。「フォークの神様」と語られて納得の行く話だ。


当時、関西フォークを支持した者にとって、その作品への親しみだけでなく、「歌」が世の中を変えるという希望や信念を反映するものだった。もっとも、現実には「歌」は世の中を変えることはできなかったが、少なくとも人の心を変え、人を動かせることを実証することになる。『わたしを断罪せよ』はそうしたことを物語るアルバムだ。


さて、五つの赤い風船の『おとぎばなし』だが、今に至っては西岡たかしの前衛性、残るメンバーそれぞれの個性を発揮したアルバムとしての評価を得ている。が、発表当時は、戸惑いの声が多かった。というのもそれまで親しまれてきた五つの赤い風船ならではの親しみにあふれた代表曲や音楽性とはいささか異なる作品が大半を占めていたからだ。


68年3月、岡林信康がプロ・デビューしたのと同じ「アンダーグラウンド音楽祭」への出演をきっかけにその存在を知られるようになった五つの赤い風船は、関西フォークの担い手たちが参加したフォーク集会、フォーク・コンサートなどのライヴ活動を通じて話題を集め、会員組織として発足したURCレコードからの第1回の会員配布盤だったカップリング・アルバム『高田渡/五つの赤い風船』によってその存在は広く知られていった。


西岡たかし、藤原秀子の二人によるハーモニーが織りなすコーラス。マルチ・プレイヤーである西岡たかし、中川イサトのギター、長野隆のベースによるサウンドのアンサンブル。そして西岡たかしが手がけた親しみ溢れるメロディーやファンタジックでいて反戦のメッセージがさりげなく織り込まれた歌詞による作品を特徴とし魅力を放っていたワン&オンリーの存在だった。


「遠い世界に」、「血まみれの鳩」などライヴ・ステージでその存在を印象付けた作品、彼らならではの音楽性は、すでに『高田渡/五つの赤い風船』で明らかになっていた。が、それに続いた『おとぎばなし』において、五つの赤い風船ならではの特徴あるコーラス、サウンドを継承していたのは、すでにライヴで親しまれ『高田渡/五つの赤い風船』には未収録に終わった「まるで洪水のように」を、さらに「まぼろしのつばさと共に」、「時計」、「おとぎ話を聞きたいの」などだけだった。


アルバムの幕開けを飾ったのは西岡自身によるフリー・フォーム的なピアノをバックにしたモノローグをフィーチャーした「私は深い海に沈んだ魚」であり、「めし屋」でも生ギターをバックに再びモノローグがフィーチャーされていた。「青い空の彼方から」、民謡に取り組んだ「貝殻節」も西岡たかしのソロ・ワークによるものだった。
「母の生まれた街」では木田高介のドラムをバックにフォーク・ロック的な志向を見せ、アルバムの締めくくり、藤原秀子のオルバンをバックした「唄」も、その歌詞やメロディーこそ五つの赤い風船らしさがうかがえるが、西岡たかし自身のステートメントに他ならなかった。


中川イサトの作詞、作曲による「一滴の水」も中川のソロ・ワークであり、長野隆の作詞作曲による「叫び」はフォーク・キャンバーズ出身という前歴を物語るメッセージ性を織り込んだ作品で、ジャックスのつのだ・ひろ、谷野ひとしが参加。ちなみに、岡林信康の『わたしを断罪せよ』でのそのふたりに木田高介も参加した作品と同日の録音による。


後にモノローグやフリー・フォーム・スタイル、メンバーのソロ志向を反映したものだけでなくコンセプト・アルバム的な志向によるという評価を得るが、実際には西岡たかしの多忙さが本作での結果を生み出したといえよう。
西岡たかしは五つの赤い風船の作詞、作曲、編曲を手がける一方、先の岡林信康の『わたしを断罪せよ』のディレクターを務めていた。それ以外に、URCの会員配布盤のシングル盤の制作、さらにはフォーク・リポートの編集主幹の役割までも担っていた。


なぎら健壱による著作『五つの赤い風船とフォークの時代』での西岡たかしの話によれば、初期の五つの赤い風船は、ライヴでの演奏、また、収録にあたってはリハーサル時に入念に演奏形態、サウンド作りに取り組み、収録した作品そのままを、ライヴでの演奏再現を可能なものにしていたという。
『おとぎばなし』の制作時、西岡たかしの多忙さからすれば、すでにレパートリーであり作品として完成されていた「まるで洪水のように」以外、新たに書いた作品を五つの赤い風船たらしめる編曲、演奏形態、サウンド構成を用意するだけにゆとりはなかった。ソロ志向を主体とした作品となったのも、そうした背景があってのことだったのに違いない。


モノローグのフィーチャー、フリー・フォームな演奏、フォーク・ロック志向などは、多彩な音楽的背景を持ち、マルチ・プレイヤーであり、既成の概念、価値観にとらわれない音楽志向を持ち、それを実践していくことになる西岡たかしの多才さを物語る。
もっとも、豊富な音楽的背景を持っていた西岡たかしだが、ことロックとの接点は大きくなかったようだ。
「母の生まれた街」においてロック志向を具体化すべく試みながら、木田高介に委ねたドラムのスタイル、演奏から想像するにジャックスとの出会いこそがロックへの認識を高める発端になったのではないか。その成果としてフォーク・ロック的なスタイルを実践したものの、その音楽性やサウンドの完成度に関しては脆弱さを否めない。長野隆作品でのロック・スタイルも、長野本人の志向によるものだったのか、ジャックス的なそれであるのも同様のことを物語る。
もっとも、「青い空の彼方から」、「貝殻節」、「母が生まれた街」での西岡たかしの歌唱の存在感と説得力、さらに「まるで洪水のように」、「まぼろしのつばさと共に」、「時計」、「おとぎ話を聞きたいの」などは五つの赤い風船ならではの世界、その完成度を高めた作品として見逃せない。ことに特攻隊をテーマにした「まぼろしのつばさと共に」や、西岡、藤原によるコーラスが鮮烈な印象を与えた「まるで洪水のように」は、五つの赤い風船の力量と存在感を示す作品だった。

岡林信康

五つの赤い風船

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