2015年09月29日

46年前の今日、青江三奈「池袋の夜」がオリコン・チャートの1位を獲得

執筆者:馬飼野元宏

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今から46年前の1969年9月29日、青江三奈の「池袋の夜」がオリコン・チャートの1位を獲得した。

「池袋の夜」は彼女の16枚目のシングルで、同年7月1日の発売。6週連続で1位を記録し、翌70年にまたがるロング・セラーとなり、彼女の最大のヒット曲となった。

青江三奈は本名・井原静子。41年5月7日、東京都江東区に生まれ、10代の頃から銀座の「銀巴里」のステージに立ち、鈴原志摩の名前でジャズ喫茶やナイトクラブで歌い、横浜の「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる。レコード歌手としてのデビューは66年6月21日、「恍惚のブルース」で、悩ましいため息唱法で名高い「伊勢佐木町ブルース」をはじめ「札幌ブルース」「長崎ブルース」と、そのハスキー・ヴォイスでご当地ソングを歌い続け、同じビクターの森進一とともに「ため息路線」と呼ばれ、大きな人気を博した。


青江三奈はナイトクラブ時代に歌っていたジャズ・ヴォーカルのセンスを活かし、金色に染めた髪とゴージャスなドレス姿で、都会の夜の恋模様をロマンチックに語り、時に深い情念を放つシンガーであったが、「池袋の夜」はそれまでの世界とかなり趣が異なる。「伊勢佐木町ブルース」あたりまでは確かにあった、ラウンジ感覚が消え、演歌色の強いメロディーになっている。ご当地ソングの舞台としても、札幌、長崎、横浜に比べ、普通は歌になりにくい「池袋」という場所が選ばれている。歌詞に登場する美久仁小路や人生横丁は、池袋駅の東口に狭い軒を並べる、戦後闇市に端を発した酒場街。華やかな銀座とも、アングラでサブカルチャーな空気を放っていた新宿ゴールデン街とも違う、庶民の情念や怨嗟、愚痴が渦巻く夜の街であった。そんな町を舞台にした歌が、彼女最大のヒットを記録したのは、ここで歌われる裏町酒場のムードと、そこで繰り返される男女の愛憎や諦念が、日本中どこにでもある風景であり、その情感が都市の底辺に生きる人々に共有されたからではなかろうか。


グループ・サウンズが全盛となり、ミニスカートが流行し、反戦フォークが盛りあがった60年代後半、若者の狂騒の一方で、夜ごと安酒に酔い裏町の盛り場をさすらう者たちに、「池袋の夜」は沁みこんでいったのである。


作詞の吉川静夫、作曲の渡久地政信ともに、ビクターの専属作家であり、このコンビによる青江作品は11作目の「長崎ブルース」が最初で、その後も「夜の瀬戸内」「長崎みれん」「札幌の女」といったご当地ソングを提供している。


それにしても3年間でシングル16枚というのは、今の時代から考えると、カウントを間違えたのか? と思うほどの枚数だが、当時の流行歌手は、毎月のようにシングルを出すことが当たり前だった。演歌歌手といっても、ジャズも歌えばラテンやポップスのような冒険作も作られた。歌が上手くてヒットを出せる歌手は、何でも歌っていたのだ。青江三奈も71年のアルバム『懐かしの映画音楽を唄う』ではタンゴの「小さな喫茶店」やスウィングの「私の青空」などを軽々と唄い、一方では軍歌もこなした。93年にはフレディ・コールやグローヴァー・ワシントン.Jrらと競演したジャズ・スタンダード集『THE SHADOW OF LOVE』を発表して、自身のルーツに回帰した。そのように洋楽的センスを持ちながら、「池袋の夜」ではあえて演歌の中にあるブルース感覚を呼び起こし、濃厚な情感をぶつけてきたのである。「ブルース演歌の女王」の称号は伊達じゃない。都会の夜の光と影、どちらも表現できる流行歌手であった。


青江三奈は2000年7月2日、59歳の若さで逝去。「池袋の夜」の舞台となった人生横丁は2008年7月に再開発でクリアランスされ消滅し、美久仁小路のみが健在である。

写真提供 芽瑠璃堂
青江三奈

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