2015年11月22日
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2015年11月22日
1969年11月9日、京都から新幹線で上京したザ・ファニーズは、世田谷区烏山の一軒家で、マネージャーの中井國二と共に合宿生活をスタートする。平屋建て10畳・8畳・6畳の3室に台所・トイレ・風呂という間取りのこの家こそが京都出身の五人組の新たな生活拠点であり、彼らのサクセス・ストーリー第二章の幕開けの場となったのである。ちなみにベッドやタンスなど家財道具一式は中井が個人で月賦購入したものだった。大阪出身で多摩美大デザイン科卒業後、渡辺プロダクションに入社。まだ駆け出しマネージャーだった彼が初めて手がける新人への熱い意気込みを感じさせるエピソードだ。
プロのバンドとして上京したとはいえ、すぐに仕事があるわけではなく、芝田村町(現・西新橋三丁目)にあった渡辺プロ系列の東京音楽学院でレッスンの日々が続く。上京3日目の11月12日にはポリドール・レコードのオーディションを受けて合格。15日には『ザ・ヒットパレード』の新人コーナー出演のため、ビデオ収録場所の新宿河田町にあったフジテレビの第7スタジオに出向いた。
1959年6月17日にスタートした同番組は、海外の最新ヒット・ポップスを日本の歌手たち(出演歌手のほとんどが渡辺プロ所属だった)がカヴァーし番組独自に作成したヒットチャート形式で紹介するという内容で、その後『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)、『ホイホイ・ミュージックスクール』(日本テレビ)、『若さで歌おうヤアヤアヤング』(フジテレビ)…と誕生する渡辺プロ制作音楽バラエティの先駆けとなっている。
ディレクターは、東京大学教育学部を卒業後文化放送に入社し、58年に開局準備中のフジテレビに移籍した経歴を持つ椙山浩一。「すぎやまこういち」名義で作曲家としても活動しており、「涙のギター」(ザ・スプートニクス)、「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ)等のヒット曲の作者として知られていた。もちろん『ザ・ヒットパレード』のオープニングとエンディングで流れるお馴染みのテーマ曲も彼の作曲によるものである。渡辺プロダクションとはハナ肇とクレージーキャッツが出演した『おとなの漫画』(1959~1964)を手がけて以来、親密な関係にあった。
そんな椙山が、収録本番前にスタジオの副調整室へ内田裕也に連れられ挨拶に来たファニーズの面々に向かって言い放つ。「ファニーズじゃパンチに欠けるなぁ。君たち関西出身か、じゃ阪神タイガースだな。命名ザ・タイガース!」。60年代にGSブームを巻き起こし王者として君臨した不世出のグループ、ザ・タイガース誕生の歴史的瞬間だったが、このようにいとも軽いノリと由来で名付けられたのが真相である。実際、内田裕也もメンバーたちも当惑を隠せなかった。彼らの間では「ジャック・ストーンズ」「スティングレイズ」といった新しいグループ名の候補が挙がっていたからだ。しかし、駆け出しの新人バンドが<フジテレビのヒットラー>と呼ばれた椙山に 異議を唱えられるわけもなく、5人は渋々この決定に従った。
こうして、ザ・タイガースとしての初仕事となるビデオ収録が始まる。演奏曲は『ナンバ一番』時代からのレパートリーで、ポール・リヴィア&ザ・レイダース66年春のヒット曲(全米4位)「キックス」。わずか30秒ほどの出演だったが、初めてのテレビ・スタジオでの演奏で5人の緊張も最大限に達していたであろうことは容易に察しがつく。そして、無事収録を終えた映像は今から49年前の今日1966年11月22日の午後7時スタートの『ザ・ヒットパレード』内で流れた。ファニーズ改めタイガースの姿が初めて全国(ネット地域)のブラウン管に映し出された記念すべき日である。
放送の翌日11月23日にタイガースは、仕事のダブルブッキングで出演できなくなったブルー・コメッツのピンチヒッターとして、急遽『新宿ACB』昼の部のステージに立つが、面白いことに昨日全国的に披露したばかりのザ・タイガースではなく、ファニーズ名義での出演だった。この日は内田裕也も不在で、当初、内田が渡辺プロと交わしていた「タイガースのテレビ出演はメンバー5人のみ。ジャズ喫茶では<内田裕也とザ・タイガース>名義で内田も参加」という協定事項に基づくものと思われる。内田不在のジャズ喫茶での仕事にタイガースの名前を使うわけにはいかなかったのだ。
12月3日、<内田裕也とザ・タイガース>は『新宿ACB』で正式にステージ・デビューする。当初はタイガースにさほどの期待も寄せていなかった渡辺プロ上層部だったが、翌67年1月の『日劇ウエスタンカーニバル』初出演時におけるファンの熱狂ぶりを目の当たりにしてからは方針を変え、内田とタイガースの分断工作を開始。最終的に両者の分離に成功するのはデビュー・シングル「僕のマリー」リリースのひと月後ぐらいまで待たなければならなかったのである。
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