2015年10月05日
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2015年10月05日
1968年6月18日、ザ・タイガースとマネジャーの中井國二など制作スタッフは3作目のアルバムの企画ミーティングを行なった。ちょうど1年前にリリースされたビートルズのアルバム『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』以後、欧米のポピュラー・ミュージック・シーンではアルバム全体でひとつのテーマを表現する所謂<トータル・コンセプト・アルバム>の手法がアルバム制作の主流となっていたことに呼応し、タイガースの新作アルバムも「ポンペイ最後の日」や旧約聖書などをモチーフに、人間の誕生に始まり戦争による世界の崩壊~復興までという壮大なテーマの作品となることが決定。作家陣もこれまでの<すぎやまこういち&橋本淳コンビ>一辺倒からの脱却を図り、モップス「朝まで待てない」やテンプターズ「エメラルドの伝説」を手がけ注目を集めていた新進作曲家・村井邦彦、「花の首飾り」の補作詞がタイガースとの初仕事だったなかにし礼、そして、元々タイガースがレコーディングしたものの未発表に終わりワイルド・ワンズ盤でリリースされた「愛するアニタ」の作詞者・山上路夫が新たに起用されることになった。こうして、のちに『ヒューマン・ルネッサンス』と題される新作アルバムの制作プロジェクトは開始されたのである。
先行シングルのカップリングとしてアルバムのオープニングとラストを飾る2曲「光ある世界」(作詞・なかにし礼/作曲・すぎやまこういち)と「廃虚の鳩」(作詞・山上路夫/作曲・村井邦彦)が選ばれるが、これは新作アルバムの予告と新たな作家陣のお披露目を兼ねていたのだろう。まず最初にレコーディングされたのが、当初は「ノアの洪水」という仮タイトルが付けられていた「廃虚の鳩」で、68年7月25日に日本グラモフォン青山スタジオで行なわれた。ソロ・ヴォーカルはトッポこと加橋かつみ。彼にとっては「花の首飾り」以来のソロ・ヴォーカル曲である。続く7月31日には東京サンケイホールで、すぎやまこういち指揮の40人編成のオーケストラをバックにジュリーこと沢田研二が歌う「光ある世界」のレコーディングが行なわれた。ホールを借り切ってのレコーディングとなったのは日本グラモフォン青山スタジオではフルオーケストラを収容し切れなかったため。当時この日の模様はニュース映画『スポニチ芸能ニュース』で紹介されたが、現在『ザ・タイガース・フォーエヴァーDVD-BOX-ライヴ&モア』でもその映像を観ることができる。
8月8日に「光ある世界」の追加レコーディングが青山スタジオで行なわれ、シングル用の2曲は完成する。9月27日、タイガースはフジテレビ『スター千一夜』の放送3003回目記念企画として標高3003メートルの富士山7合目まで登り、新曲2曲と「シー・シー・シー」を演奏(レコード音源に合わせた口パクだが…)。この模様は10月1日に放送されたが(これも前述のDVD-BOXで観ることができる)、その日は明治製菓がタイガース起用販促企画第二弾として、同社のチョコレートを買って応募するとタイガースのメンバー5人各々が旧約聖書のエピソードを朗読したノベルティ・レコード(フォノシート)『天地創造ものがたり』が貰えるというクリスマス・キャンペーンを開始した日でもあった。明らかに新作アルバムのテーマに沿って企画された企業タイアップ・プロモーションだ。さらに発売2日前の10月3日には、新曲キャンペーンとしてメンバー5人各々が福岡、広島、大阪、仙台、札幌へ飛び、各地の<廃虚>を訪問。「廃虚の鳩」を歌うトッポは広島の原爆ドームを訪ね、この模様は『週刊セブンティーン』(集英社)や『近代映画』などで報じられている。
これらの事前プロモーションを経て、今から47年前の今日1968年10月5日にタイガースの通算7作目のシングル「廃虚の鳩」c/w「光ある世界」はリリースされた。同年7月30日に米国でリリースされたバッファロー・スプリングフィールドのラスト・アルバム『Last Time Around』(細野晴臣と大瀧詠一を結びつけた重要作でもある)を模したジャケット(タイガースの写真とポリドールのロゴマーク以外は実際に木彫りで作られた手の込んだもの)は両A面的な構成だったが、前述の<廃虚>キャンペーンでもわかるとおり、あくまでもA面は「廃虚の鳩」。オリコン・チャートでは「花の首飾り/銀河のロマンンス」と記載され両A面扱いだった前ソロ・ヴォーカル曲とは異なり、今回はトッポにとって本格的A面デビューを飾った初のシングルとなったのである。当然、B面に回されたジュリーとしては心中穏やかではなく、それは「花の首飾り」が「銀河のロマンス」を追い抜く人気曲となった時以上の屈辱であり、両者の間に生じていた感情的亀裂をさらに拡げることとなった。
そんな内部事情とは裏腹に「廃虚の鳩」はオリコン・チャート3位まで上るヒットとなり、「花の首飾り」リリース時から制作スタッフ陣が目論んでいたタイガースの<ソロ・ヴォーカル二枚看板>戦略はここに結実。「モナリザの微笑」に始まる<中世の騎士>イメージ とバロック音楽をミックスさせたクラシカル路線もこれが完成形となった。そして何よりも、戦争によって瓦礫と化した街からの復興と恒久的平和の誓いを主題とした反戦メッセージ・ソングである同曲によって、タイガースは<星のプリンス>イメージからの脱皮に成功したのである。実際に、この後タイガースは雑誌等のインタビューでアイドルとしてはタブーだった政治に関する発言も目立つようになり、当時のベトナム戦争に対しては批判的な態度を崩さなかった。世界的な反戦機運の高まりの中、政治・社会・音楽も大きく変わろうとしていた時代にタイガースも転換期を迎えようとしていた。そのターニング・ポイントこそ「廃虚の鳩」だったのである。
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