2016年03月17日
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2016年03月17日
昨今では評伝がまとめられるなど、没後から20年以上を過ぎても支持を集めている安井かずみは、仲間うちから“ZUZU(ズズ)”の愛称で親しまれ、その名を冠したアルバムもある。3月17日は安井かずみの命日。1994年の春、まだ55歳の若さで彼女は逝った。それから15年後、よき伴侶であった作曲家・加藤和彦も世を去ってしまう。作詞家であり文筆家でもあった安井とは仕事の上でもコンビを組んだ。常に時代の先端を走っていたスタイリッシュな二人は世間の注目を集めたが、そのライフスタイルは当時の日本にはまだ早すぎたのかもしれない。
竹内まりや「不思議なピーチパイ」、岡崎友紀「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」、飯島真理「愛、おぼえていますか」など、安井×加藤コンビが手がけたヒット作の数は決して少なくないが、二人が夫婦となる以前、安井は作詞家として他の作家と組んで、より多くの優れた作品を世に送り出していた。そのきっかけは学生時代、シンコーミュージックでのアルバイト時代に遡る。得意の語学力を活かして、洋楽曲の訳詞に手を染めた彼女は、“みナみカズみ”のペンネームで仕事をこなすようになる。つまりは、訳詞の第一人者・漣健児こと草野昌一の下で腕を磨いたのだった。その頃手がけた初期の作品に、「ヘイ・ポーラ」や「レモンのキッス」、「G.I.ブルース」などがある。
やがて安井かずみ名義となり、普通の作詞も手がけるようになると目覚ましい才能を発揮し、1965年には伊東ゆかりが歌った「おしゃべりな真珠」でレコード大賞作詞賞を受賞。園まり「何も云わないで」、槇みちる「若いってすばらしい」、ザ・タイガース「シー・シー・シー」など、主に渡辺プロダクションの歌手たちに提供した作品が次々とヒットした。意外な仕事では、いずみたくが作曲したアニメ『宇宙少年ソラン』の主題歌にも安井の名がクレジットされている。70年代になるとさらに活躍著しく、小柳ルミ子「わたしの城下町」、沢田研二「危険なふたり」、郷ひろみ「よろしく哀愁」等々、枚挙に暇がない。
当時は少なかった女性作詞家の先輩である岩谷時子とは、活躍するフィールドが極めて近かったこともあり、何かと比べられることが多いが、時として少女の様な無邪気な目線で美しい情景を描く岩谷の詞に対して、安井の詞には男女の恋愛における心理がよりリアルに表されている様な気がする。もちろん年齢差による社会との接し方の違いもあるだろうし、シャンソンとポップスという入口の違いもあるだろう。郷ひろみでいえば、少年時代は岩谷が、大人になりかけの青年期には安井が、その魅力を存分に引き出すことに成功した。
傑作が多い沢田研二のことはタイガース時代からお気に入りだったらしい。プライベートでは親友の加賀まりこと共に飯倉のイタリアンレストラン「キャンティ」の常連組で、渡辺プロとの関係もそこで形成された。俳優の川口浩が経営した「川口アパートメント」に住んだこともあって交友関係は広く、かまやつひろしや吉田拓郎とは特に仲が良かったという。そんな彼らも77年に8つ年下の加藤和彦と結婚した時には驚かされた由。
3年前に出され、最近文庫化された島崎今日子による評伝『安井かずみがいた時代』は、関係者への取材を重ねてそれらの証言を検証しつつ綴られた一冊であるが、この書を読むと、あまりにスノッブ過ぎて生活感がなかった二人が本当に世間のいう理想の夫婦であったかという疑問は甚だ拭いきれない。作詞家としては徐々に第一線から退き、家庭中心の生活に入った安井は果たして幸せだったのか。病気の彼女を献身的に看病しつつも、没後は一年もたたずに再婚した加藤との間に真実の夫婦の愛はあったのだろうか・・・。今となっては誰にも分からない。ましてや二人は芸術家である。凡人には理解できない部分が多すぎる。しかし、少なくとも楽しい日々はあったに違いないし、二人がその時々に望んでしたことはすべて間違いではなかっただろう。
ただいえることは、安井かずみはやはり70年代に最も輝いていた作詞家であった。敬虔なクリスチャンでもあった彼女の詞は、どこか達観して厭世的な匂いを漂わせる半面、キラキラした活力に満ちて独特の感性を放つ。その作風は誰にも真似できないものである。彼女が遺したたくさんの著書の前向きなタイトル群を見るにつけ、今もし存命であれば、未来が見えない現代社会を嘆き悲しんだに違いない。人々が何の迷いもなく「若いってすばらしい」と言えた時代に、魅力溢れる街・東京を回遊しながら創作活動に没頭出来た彼女は真に幸せであったのだと思う。
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