2017年10月08日
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2017年10月08日
ムッシュが1964年の2月、銀座で米国で発売されたばかりの輸入盤『MEET THE BEATLES』に出会わなかったら日本のロックはどうなっていただろう?『エッジィな男 ムッシュかまやつ』という本を作りながら真剣にそう考えるようになった。
ムッシュがビートルズに出会っていなければ、日本のロックは大きく変わってしまっていた可能性がある。ムッシュとスパイダースがビートルズを耳で分析し、ロックサウンドのカンドコロを獲得した。ムッシュがいなければ、日本のロックは遅れた。日本にロックが根付いたのはスパイダースがいたからだ。
スパイダースは自分達の力でサウンドを固めた1966年頃、ビーチボーイズ、アニマルズ、ハニカムズなど、一線バンドのフロントアクトを務めた。そして何と本丸を食ってしまった。ぜひ本を、チェックしていただきたい。そこは重要なポイントだ。
その後スパイダースはあのビートルズの日本公演の前座を断る。どうやら自信がなかったからではなさそうだ。それまでの外タレ前座経験で十分に自分たちの実力は実感していた。
ムッシュとギターの井上尭之は、グループサウンズのその後のブームについて、「自分たちは(ロックバンドという)新幹線のレールを敷いたが、敷いた後には、スパイダースではなく他のバンドが走ってしまった」と述懐する。
ムッシュは日本に沢山の「早すぎた種」を撒いてきた。その数は膨大である。
そんな種を、小さなパズルを沢山集めて、本ができた。調べても調べてもムッシュには様々な足跡があり、追えないほどの友人がいる。一方で確かに結んでいく人物像がある。
ムッシュは「我が良き友よ」のようなメジャーヒットを飛ばし「フォークの人?」と一般人から思われていたりする。
その一方では、世界で二番目の一人多重録音(1stアルバム「ムッシュー!」)や、グラムロック・バンド、ウォッカコリンズとつるむように、マニアックな活動がある。当時ならアンダーグランド志向とでもいおうか。
間違いないことは、ムッシュは「日本のサブカルチャー」の父であること。メジャーの活動とまたがっているからこそ、隠れがちなサブを俯瞰できたという点だ。そんな道のりを、一見無意識のように見えて、確固たる決意の元に歩んだ人生だった。
ムッシュが生涯続けたフィールドワーク。全く無名なミュージシャンにも気さくに接して、新しい音楽を探求した。
今も大人達はいう。「メジャーじゃない文化に意味なんてあるの?」と。
しかし『MEET THEBEATLES』もまた、発売当時はサブカルチャー、マイナーカルチャーだった。歴史のサイがちょっと気まぐれを起こしていたら、ビートルズだってややマイナーなまま終わったかもしれない。
60年代のロック時代からは、芸能プロダクションではなく、無名を含む多数の若者が文化を支えるようになり、ムッシュはその最初の「芽」の匂いを『MEET THEBEATLES』のジャケットに嗅ぎ取り、生涯それを実践し続けた。
多くの人はムッシュを「カメレオン」と呼ぶ。一口にいい表すことができない多様な色をまとい、様々な場所に現れ、いろいろな人と交流を持ったからだ。ムッシュが接した多数の若者アーティスト達は、ムッシュにすれば全てビートルズに成りうる宝石だった。
だからムッシュを大好きな人は知っている。ちょっと見ではわからない「美味しいムッシュ」がメジャーの仮面の下に隠れていることを。ムッシュの良い曲も膨大に隠れており、様々な光彩を放っている。
≪著者略歴≫
サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。「未来はパール」など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2009年、フレンチ・ユニット「サエキけんぞう&クラブ・ジュテーム」を結成しオリジナルアルバム「パリを撃て!」を発表。2010年、デビューバンドであるハルメンズの30周年を記念して、オリジナルアルバム2枚のリマスター復刻に加え、幻の3枚目をイメージした「21世紀さんsingsハルメンズ」(サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース)、ボーカロイドにハルメンズを歌わせる「初音ミクsingsハルメンズ」ほか計5作品を同時発表。
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