2016年04月05日
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2016年04月05日
吉田拓郎が古希を迎えた。感慨深いものがある。なぜなら、拓郎は私にとって人生の“伴走者”であり、“道標”であるからだ。
1970年4月、私は東大に入学した。だが、2年で中退してしまった。大学に入学した時点で東大に対する憧れ、魅力がなくなってしまったからだ。高校時代の私は東大に入ることしか考えていなかった。入って、その後何をしたいのか、そんなことはまるで考えていなかった。だから東大という最大目標を手に入れたのと引き換えに生きる糧をなくしてしまったのだ。それからは何の目的もない空しい日々が続く。入学して3ヵ月目からはほとんど講義には出ないで、大学近くにある“レオ”という喫茶店に入りびたっては、マンガを見たりレコードを聴いていた。しかし、「こんなはずじゃなかった」という思いは常に持っていた。
そんな大学1年の終わり頃、ラジオの深夜放送で実にショッキングな歌を耳にした。吉田拓郎の「今日までそして明日から」だった。初めはなに気なく耳に入ってきた歌だったが、いつしか「そうだ。その通りだ」とうなずいている自分を発見してびっくりしたものだ。「俺の今の心情を見事に歌い切っている。こんな歌があったのか」。そう思うと、いてもたってもいられなかった。
私と違って、拓郎はフォークを歌うという行為によって何かをつかもうとしているようだった。少なくとも私にはそう思えたのだ。そのとき、拓郎こそ私にとって人生の“指針”ではないかと思った。拓郎の歌との出会いで、私は拓郎のように行動を起こさなければならないと決心した。私の中にある“青春の風”が、拓郎と共鳴して反応を起こし騒いだのだ。それからすぐに大学を中退した。20歳のことだった。つまり、私は吉田拓郎に刺激を受け、触発され、跳んだということだ。
しかしながら、思い通りにはいかなかった。情熱に突き動かされるがまま、歌手、作詞家、イベンター(コンサートの主催者)にチャレンジしたが、いずれも失敗してしまった。それでも、私はあきらめなかった。何かをしたい、という思いは消え去ることがなかったからだ。
そんなある日のこと、アルバイトの帰りに私は下北沢駅前にある書店に入った。何か面白い本はないものかと物色していると、フォークの神様“岡林信康”特集という活字が目に飛び込んできたので手に取ると、それはフォーク専門の音楽誌「新譜ジャーナル」だった。さっそく買い求め、近くの喫茶店で岡林特集を読んでいると無性に腹が立ってきた。なんだこの記事は、こんなことしか書けないのか。こんなのだったら、俺の方がよっぽどましだ。そんな思いが湧きあがってきた。これでもプロか? そう吐き捨てると、私はその場で思いのたけを文字にしていた。書き上げた論文にメッセージを添えて、私は「新譜ジャーナル」編集長宛に郵送した。結果的にこの投稿が私に幸運を呼び込むことになる。
投稿して1週間ほど経った頃、「会いたい」という連絡がきた。指定された日に編集部を訪ねると、編集長から「音楽評論家としてやってみないか。やってみる気があるのだったら全面的にバックアップする」という申し出があった。チャンスだ、と思った。「ぜひやらせてください」。この一言で私の人生は決まった。
音楽評論家としての私の正式なデビューは71年10月25に発表された「新譜ジャーナル」だった。
早いもので、それからもう45年という年月が経とうとしている。あのとき拓郎の歌を聴いて跳んでいなかったら現在の私はいない。その意味で、吉田拓郎は私にとってまさに人生の“伴走者”であり“道標”なのである。あのとき20歳だった私はこの4月27日に65歳となる。
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