2018年01月14日
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2018年01月14日
バブリー・ダンス。
荻野目洋子の1986年のヒット「ダンシング・ヒーロー(原題:イート・ユー・アップ)」が、昨年(2017年)あたりからかなりの規模でリヴァイヴァル・ヒットをし始めている。過去十数年ほど関西地区のイヴェント会場を中心になんと盆踊りを踊る曲として「ダンシング・ヒーロー」が使われ、これで一般の人が盆踊りを楽しむようになっているのだ。そして、それが長年続き昨年、大阪府立登美丘高校ダンス部のメンバーがいわゆる「バブリー・ダンス」という切れのいいダンスを振付し、そのミュージック・ビデオが公開されるや、大ヒットとなっている。
そして、そのオリジナルを歌っていたのが、イギリスのディスコ・シンガー、アンジー・ゴールドだ。日本における突然のリヴァイヴァル・ヒットにともない、そのオリジナルのアンジー・ゴールド盤も脚光を浴びている。オリジナル・リリース当時に出た12インチ盤などとあわせて急遽編纂されたディスコ・コンピレーション・アルバムが『ダンシング・ヒーロー~スーパー・ディスコ・ヒッツ決定盤!』だ。
[ダンシング・ヒーロー~スーパー・ディスコ・ヒッツ決定盤!:TECI-20723] >
ところで、荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」が誕生したのは、荻野目の所属レコード会社であるビクター音産(当時)でその曲だけ担当することになるディレクター、高橋氏が喫茶店でアンジー・ゴールドの「イート・ユー・アップ」を聴いたことがきっかけだった。高橋氏は、以前から荻野目のために音楽事務所を作った平社長から荻野目の件で相談を受けていたが、この「イート・ユー・アップ」を聴かせると平社長もすぐにピンときた。そこで、タイトルをより日本人になじみやすい「ダンシング・ヒーロー」にして、日本語で録音することを決める。
リリースされるや、それまでなかなか大ヒットがでなかった荻野目が大ブレイク。まさに彼女の最大のヒット、代表曲となったのだ。
平社長はこの荻野目の成功後に、ユーロビート系の作品をうまく日本風にアレンジし、スピード、マックス、安室奈美恵、今を時めく三浦大知などの歌って踊れるシンガーを次々に世に送り出すことになる。そういう意味で、日本でのダンス、Jポップ全盛の第一歩がこの「ダンシング・ヒーロー」から始まったとも言えるわけだ。
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ユーロビート。
これほどの盛り上がりを見せる「ダンシング・ヒーロー」だが、そのオリジナルは前述の通りイギリス出身のアンジー・ゴールド。
アンジー・ゴールドは1959年11月8日イギリス・マンチェスター生まれ。1981年にイギリスのエピック・レコードと契約。アルバム『アンジー・ゴールド』をリリース。2作目の『ア・レディー・オブ・ゴールド』をリリース、ここから「ゲット・イット・オーヴァー・ウィズ」のシングルが小ヒット。これを機に同曲で1982年3月に武道館で行われた第11回東京音楽祭に出場、銀賞を獲得する。
その後、しばらくヒットが出なかったが、1985年、「イート・ユー・アップ」の大ヒットが出て、「ユーロビート」「ハイ・エナジー」のディスコ・シンガーとして注目を集めた。
この「イート・ユー・アップ(ダンシング・ヒーロー)」は、荻野目洋子以降サマンサ・ラム、デーモン閣下、マックス(MAX)などもカヴァー。さらに2017年11月、中森明菜もディスコ・カヴァー・アルバム『ケイジ(Cage)』でカヴァーしている。
またアンジー・ゴールド自身も、ハイ・エナジー/ユーロビート・プロデューサーのイアン・レヴィンの元で1995年「イート・ユー・アップ」をまさにユーロビート風にして再録音している。
なにより、大阪府立登美丘高校ダンス部による「ダンシング・ヒーロー」は、化粧、ファッションなどをバブル時代のそれにそっくり似せて、さらにBPMを上げてかなりテンポが速くなったダンスを見せ、なかなかおもしろい雰囲気になっており、これが大きな目玉となっている。
この大ヒットを機に荻野目洋子がこの「ダンシング・ヒーロー」を持って、再度テレビなどに露出するようになり、荻野目同様、このオリジナルのアンジー・ゴールド盤にも注目が集まっている。
アンジー・ゴールドはその後、フロリダ、カナリー・アイランドなどに本拠を移したりして、現在は結婚してスペインのマルベーリャに住み、悠々自適の生活をしている。
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(2018年1月8日、Yoshioka Masaharu – The Soul Searcher)
≪著者略歴≫
吉岡正晴(よしおか・まさはる):音楽ジャーナリスト、DJ。ソウル・ミュージックの情報を発信しているウェッブ『ソウル・サーチン』、同名イヴェント運営。1970年代には六本木「エンバシー」などでDJ。ディスコ、ブラック・ミュージック全般に詳しい。ラジオ番組出演、構成選曲、雑誌・新聞などに寄稿。翻訳本に『マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル』(デイヴィッド・リッツ著)、『マイケル・ジャクソン全記録』など。自著『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』など。、毎月第一木曜夜10時『ナイト・サーチン』(ミュージックバード)を生放送中。最新情報は、ツイッター、<https://twitter.com/soulsearcher216>で。
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