2018年02月01日
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2018年02月01日
遠藤賢司が「ほんとだよ b/w 猫が眠ってる」でデビューしたのは、1969年の2月1日のこと。東芝のEXPRESSレーベルからリリースされたこのシングル盤は、モノクロームで描かれたポートレートが飾られていた。
「ほんとだよ」は、アコースティック・ギターのフィンガー・ピッキングに、優しい語り口が重なっていく。その後の「夜汽車のブルース」や「満足できるかな」でのハードに歌い叫ぶ遠藤賢司のイメージが強いかと思うのだが、デビューはこんなにも穏やかなラヴ・ソングだったのだ。
かつて筆者は遠藤賢司の音楽を、「心臓も裂けんばかりの<動>、闇夜に針の穴を通すような集中力の<静>」と表現したことがあるが、この中間の無い両極性が、彼の魅力でもあったのだ。
A面の「ほんとだよ」には、ジャックスの木田高介のフルートがフィーチャーされていて、「猫が眠ってる」には加藤和彦、西岡たかし、早川義夫が参加している。ちなみに、シングルの「ほんとだよ」は、70年のデビュー・アルバム『niyago』収録のものとは別ヴァージョンである。
2007年に遠藤賢司にインタビューをしたのだが、この時には彼のルーツとなる音楽を語ってもらった。小学校の足踏みオルガンや、天井から落ちる雨漏りの音から始まり、三橋美智也やザ・ピーナッツなどの歌謡曲、そしてそれがドノヴァンやボブ・ディランにも繋がっていく。
この音楽歴を語るインタビューの中で、遠藤賢司が自身の好きな歌手のことを、「魂を転がすような歌い方」と表現していたのが強く印象に残っている。これはそのまま遠藤賢司の歌い方ではないか。魂を転がし(ロックし)、心を揺さぶり(ロールして)、永久不滅のロックン・ロール道を邁進していった。
遠藤賢司はデビュー以降、ひとりロックン・ローラーとして、純音楽家として、華々しく日本の音楽を塗り替えていった。がしかし病魔には勝てず、2017年の10月に永遠の星になってしまった。その遠藤賢司の輝かしき出発点が、69年の2月1日の「ほんとだよ」であったのだ。
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
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