2018年10月22日
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2018年10月22日
この曲が出たのは1973年9月。ぼくは当時、アイドル雑誌『月刊明星』の編集者だった。
実は「神田川」を最初に聴いたのは、発売より少し前だったと思う。場所は、かぐや姫が所属していたユイ音楽工房の事務所だったはずだ。
そのころのぼくは、アイドル雑誌の編集者としてはかなり異端で、フォーク系の取材ばかりしていた。というより、いわゆる“芸能界”にどうしてもうまく馴染めなかったので、新興勢力としてのフォークソングに肩入れしていたというわけだ。そこで「アイドル雑誌には珍しいヤツ」と見られていたらしく、ユイやモスファミリーなどの事務所に入り浸っていた。そんなわけで、発売日前に「神田川」を聴くことになった。当然、感想を訊かれた。
正直、ぼくは答えに困ったのだった。ぼくのフォーク感覚からは、かなりズレている曲だったからだ。もっとあからさまに本音を言ってしまえば、好きじゃなかったのである。だけど、そんな本音は言えない。だから「うん、売れそうだね、この曲」と答えた記憶がある。
なぜ、好きじゃなかったのか。あまりに甘い抒情感覚に満ちていたからだ。それは、喜多條
忠の詞にも感じたし、南こうせつの高音の切なさにも震えがきた。さらには、ぼく自身の記憶を妙に甘酸っぱく揺すぶったからだ。ただ、「この歌は売れる」という直感はあった。
喜多條と同じころ、ぼくも“あの辺り”に住んでいた。早稲田、神田川沿いの小さな下宿がゴチャゴチャと建っていた界隈。ぼくは山吹町、多分、この歌の舞台は面影橋辺りじゃないかと思う。
ぼくは、全共闘運動の高揚とその挫折後の私小説じみた同棲時代ブームを忌避していた。だから、その象徴のような「神田川」の世界に、一種の違和感を抱いていた。しかし、この歌には妙に引っかかった。やけに情景が生々しく浮かんでくるのだ。
ぼくがかつて生きていた世界…。気がつけば、ふっと口ずさむ歌に、いつの間にかなっていた。
かぐや姫はとても気持ちのいい連中だった。こうせつは見た目どおりの優しい男だったし、山田パンダと伊勢正三も、気楽に話せる相手だった。むろん、年齢が近かったこともある。ぼくが在籍していたアイドル芸能誌のメインの取材対象だった幼いアイドルたちとはまったく違った取材相手だったのだ。
いわゆるフォークソングを決定的に変えたのは、実はこの「神田川」だったと、いまでは思う。“抒情派フォーク”と呼べそうな一連のブームのまさに先駆けになった歌だった。
「神田川」は、「政治の季節」から「私(わたくし)の時代」への転換期を象徴する歌となったのだ。その意味で、時代の空気をこれほど見事に表した歌もなかった。忘れられない歌、明らかに日本大衆文化史に残る歌になったことは間違いない。
時代の同じ空気を、かぐや姫の連中も喜多條氏もぼくも、一緒に吸っていたのだった。
「歌は世につれ世は歌につれ」という。「神田川」は、確かに世につれた。しかし、世は「神田川」につれただろうか?
南こうせつとかぐや姫「神田川」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木耕(すずき・こう):1945年、秋田県生まれ。本名・鈴木力。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。『月刊明星』『月刊PLAYBOY』を経て、『週刊プレイボーイ』『集英社文庫』『イミダス』などの編集長。1999年『集英社新書』の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。近刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)。
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