2016年11月09日
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2016年11月09日
1970年の11月9日、渚ゆう子の「京都の恋」がオリコン・チャートの1位を獲得した。この曲を作曲したのはベンチャーズである。これはどういった経緯で生まれたコラボレーションなのだろうか?
ベンチャーズが日本にエレキ・ブームを巻き起こしたのは1965年、2度目の来日の頃。それ以降来日は70回を超え、昨年はメンバーのドン・ウィルソンの引退ツアーとして全国津々浦々を回り、日本人に最も愛される外国人アーティストとして今もその音楽は日本国民に深く浸透している。彼らもまた親日家で、60年代後半からは日本を意識した楽曲を発表するようになり、それらのインスト曲に日本語の詞を乗せて日本人歌手が歌いリリースされることが多くなった。現在では「ベンチャーズ歌謡」と呼ばれる一連の楽曲群である。
そのきっかけとなったのは66年9月15日に発売された「二人の銀座」。彼らの「GINZA LIGHTS」というインスト・ナンバーに永六輔が詞を乗せ、新進アレンジャーだった川口真が歌ものへ編曲を施し、和泉雅子と山内賢の日活青春スター・コンビが歌い大ヒット。同名の映画も作られ、このコンビは引き続き「星空の二人」「東京ナイト」とベンチャーズ作品を歌った。続いて67年8月に奥村チヨが「HOKKAIDO SKY」を「北国の青い空」として発表、こちらも大ヒットを記録する。
これ以降、グループ・サウンズが一大ブームを迎えた日本の音楽シーンで、相対的にベンチャーズ人気は低迷するが、GSの退潮とともに再び人気が浮上してきた彼らが久しぶりに放った大ヒットが、この「京都の恋」だった。
「京都の恋」はベンチャーズの原曲タイトルが「EXPO’70」。つまり大阪万国博を意識したものであったが、日本での英語題は「KYOTO DOLL」である。これに林春生が詞をつけ、渚ゆう子が歌うことになったが、折からの万博開催に合わせ、国鉄が仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」のブームとの相乗効果もあり、外国人の作った日本風メロディーが新鮮に響き大ヒット。ベンチャーズのインスト盤ではエレキ・シタールが使われていたが、渚ゆう子版では琴の音色をフィーチャーしているのも特徴的だ。
「京都の恋」のように、外国人が和風に作ろうとしたメロディー・ラインが日本人にはエキゾチックに聴こえるのが特徴で、「日本再発見」という温故知新的な解釈を取り入れた「ディスカバー・ジャパン」の世界とも合致したのだ。渚ゆう子はその後も「京都慕情」「長崎慕情」とベンチャーズ作品を歌いヒットに結び付けており、さらには71年に台湾のクラブ歌手だった欧陽菲菲がベンチャーズ歌謡「雨の御堂筋」でデビュー、こちらもオリコン1位の大ヒットとなったことで、「ベンチャーズ歌謡に外れなし」の法則が語られるようになった。
ただ、「京都の恋」以降のベンチャーズ作品と、それ以前のものではやや印象が異なる。「二人の銀座」や「北国の青い空」はまだインストの歌謡化で、結果、エレキ歌謡や和製ポップスの枠組におさまっているが、「京都の恋」以降は、エキゾチックな「日本風」を意識したメロディー作りにも聴こえる。言い換えれば、歌物としてのリリースを最初から狙っているような印象があるのだ。これは、リード・ギターのノーキー・エドワーズが67年から72年までグループを離れており、その不在時に「京都の恋」や「雨の御堂筋」が書かれているので、ノーキー以外のメンバーが日本の歌謡曲メロディーを研究した成果といえるかもしれない。
「京都の恋」で一躍スターダムに上った渚ゆう子だが、彼女はもともと沖縄民謡の歌い手で、琉球舞踏の踊り手でもあった。和田弘とマヒナスターズの前唄歌手をつとめ、浜口庫之助に師事しハワイアン歌手に転向したが、67年、マヒナがビクターから東芝に移籍したのを機に、同じ東芝の草野浩二ディレクターのもとでハワイアン歌謡「早くキスして」で歌手デビュー。だが、丸3年ヒットに恵まれず、結婚を決め引退を考えていた矢先の大ヒットであった。
ところでこの「京都の恋」、歌い出しがある曲に似ていることは有名な話。ラーシドレドシラ……というメロディー・ラインはローリング・ストーンズの「黒くぬれ!」のイントロと同じ運びだが、ベンチャーズ自身もそのことは重々承知の上で、新宿厚生年金会館で行われた来日公演を収録した71年のアルバム『ベンチャーズ・オン・ステージ’71』で当の渚ゆう子をゲストに迎えた「京都の恋」と「黒くぬれ!」をメドレーで演奏する遊び心をみせている。このメドレーは日本公演で定番化し、2015年の「さよならドン・ウィルソン」ツアーでも披露された。
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