2019年01月24日
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2019年01月24日
1月24日でニール・ダイアモンドが78歳になる。丁度1年前にパーキンソン病を理由にコンサートツアーからの引退を発表したが、その6カ月後の2018年7月には自分の住んでいるコロラド州のバサルトで49キロ平方メートルを焼き尽くした火事に勇敢に立ち向かった消防士たちへの感謝の気持ちとして、アコースティック・ギターを弾きながらのソロ・コンサートを行い、元気な姿を見せ、世界中のファンを安心させた。ツアーからは引退するが作曲やレコーディングの音楽活動は続けて行くというから、2014年と2017年に発表した2枚の“グレーテスト・ヒッツ”アルバム(『オールタイム・グレーテスト・ヒッツ』『50th Anniversary Collector’s Edition』)の間に出した『メロディー・ロード』以来新しい作品を出していなかったニールが、今年辺り久しぶりに新しいアルバムをキャピトル・レコードから発売することを期待できるかもしれない。
しかし、よく考えるとこの2014年のキャピトル・レコードへの移籍というのは、ニール・ダイアモンドのビジネスマンとしてのセンスが本当に並外れて素晴らしいものであることを示しているといえる出来事だと、改めて感服してしまう。
1966年に「ソリタリー・マン」でバング・レコードからソロアーティストとしてデビューしたニールは「チェリー・チェリー」や「ガール・ユール・ビー・ア・ウーマン・スーン」などのヒットを連発していたが、発売するシングル盤の選曲でバングの社長バート・バーンズともめ、バングを辞め、1968年にユニ・レコード(後にMCA)と契約している。
そこで「スイート・キャロライン」、「クラックリン・ロージー」などのヒットを連発し、「アイ・アム・アイ・セッド」が全米のヒットチャートを賑わしていた71年の夏にニールは突然コロンビア・レコードとアルバム1枚に対し1100万ドルの前払い金を貰うという破格の契約を結ぶことを発表し音楽業界をビックリさせたのである。それは前払い金の大きさもさることながら、ニールとMCAレコードの契約が切れる1年半以上前に次に移るレコード会社との交渉をまとめて発表した、というそれまでの業界の常識である、契約終了前の半年前から次の候補者と交渉する(しかも内密に)という状態からしたら考えられない“ルール破り”と言われても仕方のない大胆なものだったからだ。しかも、移籍したコロンビア・レコードでの最初のアルバムが、映画『かもめのジョナサン』のサウンドトラック・アルバムという、多くの人の意表を突くものであり、これが映画自体の評価はあまり高くなかったにも拘らず大ヒット・アルバムとなり、改めてニール・ダイアモンドのビジネス・センスに注目が集まったのである。
この後、1977年に長い裁判の末に、バング・レコード時代の原盤を取り戻すことに成功したニールは、コロンビア・レコードとの次の契約更改に、多分前払い金の額を大幅に減らすことと引き換えにコロンビアから発売した自分の原盤の権利を自分に返すという条件をコロンビアに飲ませたと思われる。
そのコロンビア・レコードとの契約も2008年の『ホーム・ビフォー・ダーク』、2010年の『ドリームス』などのヒットアルバムを出していたが既に30年以上が経ち、間もなく40年になろうとしていた。
そこで、ビジネスの才覚に優れたニール・ダイアモンドは、この機会を自分の持っていないユニ(MCA)時代の原盤を取り戻す交渉にしようと考えたのだ。
早速彼はコロンビア時代に一緒に仕事をしていたスティーブ・バーネットが社長をしているユニヴァーサル傘下のキャピトル・レコードにアプローチし、自分の過去の原盤を全部持って行くから、ユニ(MCA)時代の原盤を自分に返してほしい、という申し入れをしたのだろう。
このディールの相談を受けたユニヴァーサル・ミュージックのヘッド、ルシアン・グレンジにとっても、ニール・ダイアモンドのバングとコロンビア時代のレパートリーを全部ユニヴァーサルから発売出来れば素晴らしいベスト・アルバムが編成出来るし、ストリーミング・サーヴィスにおいてもコンスタントな需要が見込める。何よりも(ちょっとその差はかなりあるが)ユニヴァーサルを追いかけているコロンビアを傘下に持つSONYミュージックとの差をもっと開くことが出来る、という戦略的なメリットも十分あり、ニール・ダイアモンドと契約することと、彼のユニ(MCA)時代の原盤をニールに返却することのOKを出したに違いない。
これで、ニール・ダイアモンドは初期のバング、その後のMCA、そしてそれ以降のコロンビアで出した全部のレパートリーを自分の手元に収めることに成功したのである。(これで2014年の『オールタイム・グレーテスト・ヒッツ』アルバムが発売されたのである)。
多くのアーティストがそうしたいと望んでいながらいろいろな理由で出来ていない自分の音源を自分で所有するという、アーティスト・ドリームをニール・ダイアモンドはその見事なビジネス・センスで実現させているのである。
次に発売される新しいアルバムがどんなものになるのか、とても楽しみだ。
≪著者略歴≫
朝妻一郎(あさつま・いちろう):(株)フジパシフィックミュージック代表取締役会長、日本音楽出版社協会顧問(元会長)。音楽評論家、音楽プロデューサー。高校時代にポール・アンカのファンクラブ会長に就任。高崎一郎の知遇を得、アシスタントとしてニッポン放送で選曲や台本書きのアルバイトを務める。1963年より会社員生活の傍ら、レコード解説の執筆を始める。1966年パシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィックミュージック)に入社。契約を担当する一方、ディレクターとしてザ・フォーク・クルセダーズやジャックスのレコード制作を手掛ける。以来、大瀧詠一、山下達郎、サザンオールスターズ、オフコース等、数多くのアーティストに関わる。
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