2019年03月11日
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2019年03月11日
ザ・ビートルズは、いわゆるプロモーション・ビデオ(ミュ-ジック・ビデオ、ビデオ・クリップとも言う。以下MV)の先駆者と言われることがある。映画『4人はアイドル(HELP!)』が80年代のMTVの元祖だと言われたのは、おそらく21世紀に入ってからだと思うが、芸術的な映像作品として最初に発表されたのは、間違いなく「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」(特に前者)と言ってもいいだろう。ライヴ活動をやめてスタジオに籠って制作された『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の最初期にレコーディングされたこの2曲は、アルバムに先駆けてビートルズの14枚目のオリジナル・シングルとして67年2月17日(アメリカは2月13日)に発売された。
67年3月11日は、ディック・クラークが長年(1957年から89年まで)司会を務めたテレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』で、その2曲のMVが初めて放映された日でもあった(イギリスは2月に放映)。今回はその2曲のMVについてまとめてみる。
ニュー・シングルの発売に際し、67年1月から2月にかけて2曲の撮影が行なわれた。レコーディングの合間に4人が郊外に繰り出したのは、ライヴ活動をやめたビートルズの動く姿をとらえた映像を世界中のファンに届ける必要性があったからだろう。
監督は、66年に『リボルバー』のジャケットのイラストを書いた旧知のクラウス・フォアマンを介して知り合った、スウェーデンのテレビ映像ディレクターのピーター・ゴールドマン。彼を監督に抜擢したのは、ゴールドマンのシュールレアリスティックなセンスを評価したポールだった。映像関連でも4人の中で「先」を行っていたのはポールだったということだ。
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」は1月30日と31日に撮影されたもので、撮影場所は、ケント州(ロンドンの南東部)ノール・パークという広大な庭園をゴールドマンが選んだ。その結果、ポールの要望通り、小道具をふんだんに使った幻想的な雰囲気の映像に仕上げられただけでなく、色彩処理やスローモーション、逆回しなども取り入れられ、「僕らが音楽でやろうとしていることをイメージで表現している」とジョンも絶賛する秀作となった。
一方、「ペニー・レイン」は2月5日と7日に同じくノール・パークで撮影された(「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」撮影時の映像も一部盛り込まれている)。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」とは対照的に、歌詞に描かれたリヴァプールの町並みを思わせるのどかな風景をあしらった抒情的な仕上がりで、こちらも、曲調を映像化した作品として観ることができる。4人とも乗馬の経験はなかったそうだが、リンゴが乗った馬は気性が荒かったのか、リンゴとはウマが合わなかったのか、相当苦労してまたがっている(振り回されている)様子が見て取れる。どことなくテレビ・アニメ番組「アニメ・ザ・ビートルズ」のリンゴを思い起こさせて微笑ましくもあるけれど。
せっかくなので、リヴァプールでの4人が撮影できればなおよかったが、67年に「地元」に繰り出すことを回避したのだろう、町の映像は制作スタッフが別途ロケに向かって撮られたもの(もちろんペニー・レインも)がところどころに挿入されている。リヴァプールかと思わせる町中を歩く場面では、ポールが歌っているのになぜかジョンがフィーチャーされているのがちょっと妙ではある。
この2曲のMVが、67年9月に撮影が開始されたテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に大きな影響を与えたのは間違いない。いまでは鮮明な映像を、2015年に発売された『ビートルズ1』の映像集『ビートルズ1+』と、2017年に発売された『サージェント・ペパーズ~』の50周年記念ボックス(一番高いやつ)で観ることができる。
斬新な映像もさることながら、久しぶりに「表舞台」に登場した4人がヒゲ面だったこと――ライヴ(アイドル)をやめたらこんなに変わっちゃったのかと、待望の最新映像を目にした当時の日本の『ミュージック・ライフ』の読者をはじめ、世界中のファンの落胆の声が、今でも聞こえてくるような気がする。
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
藤本国彦(ふじもと・くにひこ):CDジャーナル元編集長。手がけた書籍は『ロック・クロニクル』シリーズ、『ビートルズ・ストーリー』シリーズほか多数、最新刊は『GET BACK… NAKED』(12月15日刊行予定)。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
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