2018年08月13日
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2018年08月13日
本日、8月13日はフォーク・クルセダーズ(フォークル)やサディスティック・ミカ・バンドの陰のメンバーと呼ばれ、その後は雑誌編集者、ライター、特に「時計王」として世界的にも知られる松山猛の誕生日。
私が大いに気になる、1946年(~学年が同じ47年3月まで)の京都生まれ(または京都育ち)の一員でもあるのですね。
1946年は昭和21年、太平洋戦争が終わった翌年であり、1947年からの3年間に生まれた膨大な「団塊の世代」に混同されることもあるが、実は昭和20年より出生数は少ない年ながら「戦争を知らない子供たち」1年生として戦後世代の先頭に立つ一群であり、ポピュラー音楽界では、その顔触れが他の年に較べても突出しているのが実に興味深い。
ザ・タイガースのメンバーである瞳みのる、森本太郎、岸部一徳、フォークルの北山修、加藤和彦、さらに岡林信康や杉田二郎も同学年であり、しかもタイガースもフォークルも結成された1965年には、歳は違っても沢田研二や加橋かつみ、また端田宣彦らも京都(京都市)に在住だったのは何だか不思議。もちろん結果的には「必然」なのだが、全国から若者が数多く集中する東京ならまだしも、なぜ京都?と思わざるを得ません。
もっとも、フォークル系に関してならば、やはり加藤和彦という、生まれたのは京都ながら、物心つく前に神奈川県の湘南あたりに引越し、特に多感な中学~高校生の頃は東京の銀座周辺で暮らしていた人物が、1965年に大学入学のため京都へ帰還したことが、魔法の最初の一滴だったに違いない。
そして当時の京都市には、その一滴を高密度で増殖しうる豊かな土壌があった。
高校時代にアメリカ留学の経験がある藤原洪太氏を擁して本場の空気を東京以上にヴィヴィッドに持ち込み得ていたアマチュア組織AFL(アソシエイテッド・フォーク・ローリスト)が確固として存在しており(ちなみに、そこのオヤブンが端田宣彦であり、ピンチヒッターで加入した第2次フォークルでは年下らしき「いじられキャラ」を演じたが、実は誰よりも年上の1945年1月生まれ)、そして北山修こそが当地に居て加藤がメンバー募集した雑誌投稿に目を留めて自転車でやって来たし、北山の通う府立医大の目の前には杉田二郎が居た立命館大があり(現在は移転)、そこからは岡林信康や端田の同志社大も近く、すでに北山と松山猛は高校時代に顔見知りだったし、松山は家が近所で幼なじみだった福井ミカの家でボーイフレンドとして加藤和彦を紹介されたのだった。
京都が東京などより断然狭い地域だったことは数々の才能が出逢うためには好都合だったと言える。
さて、もちろん大学時代の加藤の音楽グループはフォークルであったとはいえ、加藤自身の言葉によると以下のような生活だった。
「私たちは夜な夜な松山の小さな自室に引きこもり歌を作っていた。私がギターでメロディを見つけると松山は直ちにそれに詩を付けた。それを松山はテナーで歌うのであった。…明け方近くまでこの様にして過ごした。清々しい朝露を感じながら、ちょっと離れた私の自宅まで歩いて帰るのは、若さをもってしても大変であったが毎日そうやって帰った。ちょっとの睡眠の後、学校に少しだけ顔を出し、午後はアマチュアのザ・フォーク・クルセダーズの練習に向かった。夕方、松山と四条河原町あたりで落ち合い…」(松山猛著「少年Mのイムジン河」の加藤寄稿文より)
この時期の(第1次)フォークルはオリジナル曲を披露することは優先しておらず、実際、大学卒業を控えての解散記念に自主製作したアルバム『ハレンチ』でも1曲以外はフォーク系カヴァーのみ。で、その1曲、すなわち「帰って来たヨッパライ」の作詞者は「フォーク・パロディ・ギャング」とのクレジットだったが、基本的に松山が書いたもので、「なーおまえ」のくだりを北山が後に付け加えたとのこと。
(また、蛍光色バリバリのジャケットのイラストも松山の手によるものだが、これは10年後のセックス・ピストルズ、かの1stアルバムのジャケットに影響を与えたはず、とは全くの私見ですが、その根拠は以前に当コラムで書いてみたことがあります)
なお、加藤の上記文中で「ちょっと離れた」とあるけれども、私が京都遠征でサイクリングした時、当時の松山宅あたりから加藤宅あたりまで30分は掛かったので、徒歩だと1時間30分以上?
自転車は無くとも京阪電車の始発まで待てば5分ほどなのに、創作の高揚感を引き延ばしたかったのかな。
ともかく、よほど気が合ったということだろうが、それぞれの作風も似通っている気がする。私流に言うならば「浮遊感」であろうか。明らかに北山修の詞の世界とは重心の位置が違う。
フォークル時代に2人のコンビ作が新たにレコード化されたのは「オーブル街」だけだったが、かなり幻想的、いわば(良い意味で)足が地に着いていない感じだったし、加藤の初期のソロ作として有名な「家をつくるなら」も住宅メーカーのCMソングに使われるなど一見リアルな情景に思えても、天体観測をする透明な屋根が欲しいとか、やっぱり土台には興味が無いって感じ(笑)。
と言うと、いささかこじつけめくにしても、松山が11歳の夏(ちょうど今頃だろうか)、澄んだ京都の満天の星空を旧ソ連の人工衛星スプートニク3号が淡く光って通過するのを目撃して以来、ロマンティックかつミステリアスな天空(星空、宇宙)が好きになったことが大いに影響している模様。
「帰って来たヨッパライ」も幼き頃、眠る前に父親から何度も聴かされたという「天の、ずーっと上の方から長いふんどしが、おりてくるんやで、いやはるのんは、そらおそらく神さんなんやろうなあ」てな昔話の記憶と併せて発想されたようだし、日本語詞を付けた「イムジン河」でも、地上には歴然と存在する国境の上空を水鳥は自由に飛び交う。この水鳥の描写は原語版にもあるとはいえ、あちらでは鳥は岸辺にも降り立つが松山版では飛び続けていて、とうとうと流れる河を眺める視線も飛ぶ鳥のもの(文字通り、鳥瞰)と私には感じられてならない。
(なお、フォークル版「イムジン河」が発売中止になった後、日本初のインディーズ、URCレコードの第1弾として北山プロデュース、加藤アレンジで、ミューテーション・ファクトリー名義の同曲シングルが世に出ることになったが、そのメンバーは第1次フォークルの平沼義男と芦田雅喜、そして松山の3人だった。基本的にコーラス構成ながら、一部のソロ・パートで聴ける朗々たるテナーが松山かな?)
そして、松山の宇宙嗜好が全開となったのは、何といっても加藤が率いたサディスティック・ミカ・バンドの同名1stアルバム(ただし、トロピカルなジャケット・デザインとは違和感あり)。
曲のタイトルだけ見ても、まずは好きなモノのモロな合わせ技「宇宙時計」、そして「シトロン・ガール:金牛座流星群に歌いつがれた恋歌」、「銀河列車」、「恋のミルキー・ウェイ」(これは高橋幸宏作曲)、それらの中でも「空の果てに腰かけて」は開放(および解放)されたリゾート感覚あふれる加藤の悠々たる曲調と併せて、松山ならではの視座が見事に表現されている。
かような松山の、望遠鏡が欲しい天文スケールへの憧れと顕微鏡が必要なほど細かいパーツが数多く組み合わさって正確に(しかしデジタルではなく、ある意味で人間の心臓っぽく)鼓動し続ける手作り機械式時計への憧れは相対するようでいて、実は時計とは天空の動きを人間が手近に再現したものなのだから、根は全く同じ。
そのピンキリの大きな振り幅の中で紡ぎ出される松山ワールドは、重力に縛られた人間の体も人間関係に絡まれて身動き取れない心も自由にさせてくれるような気がしてなりません。
さて、今夜も晴れていれば、松山さんは星空を見上げることでありましょう。
私たちもまた、恒久たる星空に宇宙の大時計を感じようではありませんか!
しばらくしてフッと気付くと、足が地球上から少し浮いているかもしれませんよ~♪
フォーク・クルセダーズ 「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
小野善太郎(おの・ぜんたろう):高校生の時に映画『イージー・ライダー』と出逢って多大な影響を受け、大学卒業後オートバイ会社に就職。その後、映画館「大井武蔵野館」支配人を閉館まで務める。現在は中古レコード店「えとせとらレコード」店主。 著書に『橋幸夫歌謡魂』(橋幸夫と共著)、『日本カルト映画全集 夢野久作の少女地獄』(小沼勝監督らと共著)がある。
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