2016年02月19日
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2016年02月19日
1967年12月25日に一般発売されたフォーク・クルセイダーズ「帰って来たヨッパライ」の売り上げは驚異的で、単にレコード業界の例に留まらず、それ以前に国民的ブームとなったフラフープやダッコちゃん人形と同じく、欲しくても生産が間に合わず手に入らない程の社会現象と化した。
最終的には280万枚以上とも喧伝されたが、既にあった自主製作音源そのまま、ジャケットのビジュアルも引用してリリースした東芝レコード(東芝音楽工業)は、当時10万枚売れればヒットと言われた時代に、その28倍も1曲だけで稼いだことになる。まさに「濡れ手に粟」の格言が頭をよぎるが、一方それは音楽好きなアマチュア大学生に大会社の方から頭を下げてレコード発売を懇願したという前代未聞の事態の結果なのだから、誠に痛快至極。
当然のように次のシングルも東芝からリリースする運びになり、その曲は同じく自主製作したLP『ハレンチ』にも含まれていてコンサートでも人気の高かった「イムジン河」に決定。今回は新メンバーの端田宣彦を含む3人で吹き込み直した音源となり、だからなのか「フォーク・クルセイダーズ」から変わって、以降は「フォーク・クルセダーズ」名義で(ま、どっちにしても「フォークル」)、発売予定日は1968年2月21日。
前作からのインターバルが短いが(通常は3か月程度)、超ブームが続いている内に正反対のイメージの新曲を出す相乗効果も狙ったというところだろうか。発売前々日の19日には、直前の宣伝になるはずの「~ヨッパライ」大ヒット記念パーティーも開催。
ところが、当日の記者会見の席上で同曲の出自に関する朝鮮半島の国家的な問題が浮上、まさに「好事魔多し」の格言が頭をよぎるが、急きょ翌20日に自粛?で発売中止に…。
しかし、こうした逆風となるべき事態も、むしろ音楽の神様の思し召しだったのかもしれないと思われる展開を示すことになる。
メジャーとは何かと面倒なもんやのう、ということが翌1969年2月の関西発自主レーベル・URCレコード発足の基になり(その1作目はフォークルの北山修プロデュース、加藤和彦アレンジで、第1次フォークル・メンバーの平沼義男、芦田雅喜と、当の日本語オリジナル作詞者の松山猛によるミューテーション・ファクトリー名義での「イムジン河」)、またフォークル自身にとっても、代わりのシングル用の作曲を加藤が監禁・強要?されたことで「悲しくてやりきれない」が生み出され、元々あった加藤のクリエイター素質を開花させることに結び付き、さらに北山+端田コンビでの創作も後年の「風」「花嫁」などの大ヒットに連なることになったのだから、当時すんなり「イムジン河」が発売される以上に、後々までの日本のポピュラー音楽に多大なる果実をもたらしたと言い得る。
まさに「災い転じて福と為す」の格言が頭をよぎるが、併せて、そのような経緯ゆえにクローズアップされることになった、お隣の国が抱えている(ひょっとしたら、戦後日本もそうなっていたかもしれない)民族分断の悲劇に、その朝鮮戦争の特需も礎とした高度経済成長を謳歌していた日本人(の特に若者)が思いを馳せることが広く出来るようにもなったと思う。
だが、今や日本では当時の「イムジン河」音源の公式発売も叶っているとはいえ、国境を超えるのは水鳥だけではなくロケット(ミサイル?)も、というように、かの国家間の融和は困難度を増してしまっている。
2000年代になって以降、「イムジン河」には北山によって1度ならず新たな詞が書き加えられてもいるが、そこに重ね重ね込められた「歌よ橋になれ」との願いは、未だに願いのまま…。
そうそう、この3年後にジョン・レノンが「国の境なんて無いと想像してみたら」とか淡々と歌った「イマジン」とは共通するところが大いにあると思っているのだが、何より「イマジン」と「イムジン」、タイトルが似てる~
ところで、フォークル発祥の地である京都と言えば「鴨川」。
水鳥も飛びかっているし、当のイムジン河とイメージを重ね合わせられる面もあるが、こちらは分断しているのでは無く、江戸と京都を繋いだ東海道五十三次の西の起点と言うか終点の三条大橋、京都を代表する繁華街の四条河原町および祇園を結ぶ四条大橋、牛若丸と弁慶の出逢いの場とされる五条大橋、そして「イムジン河」日本語版を作詞した松山猛が同曲を教わることになる朝鮮学校生と同所で楽器の練習をしていて親しくなったという九条大橋、いずれも鴨川に架かる橋だが、異文化が交わって新たなものを生み出す、まさしく橋渡しの場であると思われてならない。
1965年夏、高校まで暮らしていた東京・銀座あたりから京都市の南方面の地に引っ越して来た大学1回生の加藤は、男性ファッション雑誌「メンズクラブ」にメンバー募集告知を投稿。それを見て、京都駅より北側(いわゆる観光地の「京都」というエリア)に住んでいた同じく大学1回生の北山が自転車で加藤家を訪ねた8月(の、おそらく下旬)こそがフォークルの起源となるが、その際に絶対に鴨川を渡っているのも象徴的。
ならばと、昨2015年8月下旬、北山と加藤の出逢いからちょうど50年目の夏、私は東京から京都へと赴き、古い地図で確認した京都駅近くの旧・北山医院前から、かつて加藤家があった前記「メンクラ」掲載の住所を目指して(京都では一般的な)レンタル自転車でGO!
京都の通りは碁盤の目のようだからルートは門外漢にも分かり易いが、50分くらいで到達。1分毎に1年過去に戻る時間旅行の気分で、ささやかな私の念願だった十字軍(クルセダーズ)遠征を果たした次第。
ま、同行の士は居ない独り旅でしたが、私と同じような酔狂をしてみた同好の士は他にも居たのでありましょうか?
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