2015年10月15日

35年前の本日1980年10月15日、山口百恵引退。裏方から見た山口百恵引退顛末記。

執筆者:川瀬泰雄

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1980年10月15日山口百恵引退。

あれから、もう35年も経ってしまったのだと心底驚いている。

山口百恵の結婚・引退に関しては数々の番組やニュース報道などでも取り上げられているので、ご存知の方も沢山いらっしゃると思います。

ここでは、あまり知られていないだろうと思われる裏方としての当時の顛末の一部を書きます。

勿論、ホリプロのマネージャーやスタッフも大変な忙しさだったのだが、今回は音楽制作サイドの立場だけについて触れてみます。


百恵引退の1980年の年末は、僕個人的にもすべてが変わった。まず当然ながら、百恵引退による自分の仕事の変化。第2の変化は自分の趣味のことなのだが、百恵の結婚後の約半月後12月8日ジョン・レノンが射殺されるという事件が起こった。密かに期待していたビートルズの復活は完全に断たれてしまった。そして3番目はよく比喩として、あの時生まれた子がもう何歳になる、というような表現があるが、実際にその1週間後の12月15日、これは自分にとっては嬉しい出来事だったが、娘が誕生する。こうして人生には仕事、趣味、私生活が一気に変わってゆく時があるんだと妙な実感を持ったことを思い出す。


勿論、山口百恵の引退ということでは年末どころか、80年の3月の結婚・引退を表明した時から殺人的な忙しさが始まった。山口百恵のスケジュールはそれまでにお世話になったテレビ局や映画会社、雑誌、CMのスポンサーなどの恩返しのようなスケジュールで全部埋まってゆく。


振り返ってみると、結婚・引退が決定した80年の春以降に限っても、我々が制作したレコードは、アルバムが『春告鳥』、『メビウス・ゲーム』、2枚組でA、B、C面の3面という不規則な形の『不死鳥伝説』、最後のスタジオ・アルバム『This is my trial』、映画『古都』のサウンド・トラック盤、そしてラスト・ライブの3枚組『伝説から神話へ…BUDOKAN AT LAST』、の6タイトル。約、月1タイトルのペースである。シングルも「しなやかに歌って」、「愛染橋」、「謝肉祭」、「.ロックンロール・ウィドウ」、「さよならの向う側」、「一恵」の6タイトルを制作し、発売された。オリジナル楽曲だけでアルバム・シングルを合わせると約50曲。それにプラスして3枚組のライブ・レコーディングと映画用のサウンド・トラック盤のための録音、ミックスダウン編集。


前述のとおり山口百恵本人のスケジュールは真っ黒。どうやってレコーディングのスケジュールを空けてもらうのかが最初の問題であった。やっと空けてもらったスケジュールは百恵本人には申し訳なかったが、ほかの仕事が終わった後の深夜に2時間ずつ。引退までほとんどがこのスケジュールだった。その空けてもらったスケジュールも、歌に関しては何としても1時間で1曲を録音しなければならないという過密スケジュールだった。


1曲を制作するレコーディングのおおよその手順としては、まずどんなイメージの曲にするかという企画を立てる。そして作詞家、作曲家と曲についての打ち合わせ。曲が出来上がるとアレンジャーと打ち合わせ。楽器ごとのスタジオ・ミュージシャンの決定。スタジオの押さえ。カラオケのレコーディング。そして歌の録音が終わるとすぐにミックス・ダウン。これを約半年の間に50曲作るのである。勿論、その間にライブ・レコーディングやサウンド・トラック盤のミックス・ダウンや編集作業が入ってくる。毎日休む隙間も無く、否応なしに常に山口百恵を考え、実際に業務をこなしていった。何かトラブルがあってもスケジュールの遅れは許されないのである。勿論、いつものように細かい仕事上のトラブルは起きていた。曲が上がってこない、アレンジャーのスケジュールが取れない、スタジオやミュージシャンが希望通りに押さえられない。次々と細かいトラブルは続いていくのだが、すべて、何とか解決させて行った。


当時は、取材などで山口百恵の引退を知った時の感想を聞かれることが、何度もあった。

空虚感とか寂寞感を伝えれば納得してもらえたのだろうけど、こんなスケジュールの中で引退や結婚を実感するのは難しかった。レコーディングの最後が近づいてくるとスタジオのロビーにも取材の記者や関係者なども多くなってきて妙に落ち着かない。勿論、録音中はスタジオの中にはスタッフだけなのだが、時間的な期限が決まっているための切迫した感じは、それまでのレコーディングでの、いつもの和やかな中にも百恵本人やスタッフや作家の間にあった緊張感とも微妙に違っていた。貰っているスケジュールは前述のとおり、絶対に1時間で1曲を仕上げなければいけなかった。百恵の声も仕事の忙しさの中で少しずつ擦(カス)れが見え始めた。


しかし最後のスタジオアルバム『This is my trial』を聴いていただければ、判って戴けると思うのだが、このちょっとハスキーな感じが魅力的なのである。百恵本人が気力を絞って仕事をこなしてきた中での迫力さえ伝わってくる。そして9月26日、スタジオでの録音はすべて終了。あとは武道館のラスト・ライブの録音である。万が一の武道館での録音トラブルに備え、予備の音源の収録のため、次の各地のライブへも同行し、録音の手順の予行演習や予備のための録音をした。9月30日 札幌市真駒内アイスアリーナ、10月2日 福岡市九電記念体育館、10月3日 大阪厚生年金会館、10月4日 名古屋市民会館。


そして本当に最後のライブ10月5日 日本武道館の録音である。録音が順調に始まったのを確認し、この時は、自分のけじめの為に自腹で購入したチケットで、初めて客席で百恵のライブを観た。ただ感傷に浸っている余裕もなく、アンコール直前に録音の為に用意してあるミキシング・ルームに戻った。有名なマイクを置くシーンはモニターテレビの画面で観た。


翌日からも百恵引退という一大イベントの報道を横で見ながら、3枚組のレコードの為のミックス・ダウン。マスタリング。たまに入ってくるテレビの特番の為、山口百恵のスタッフとしてのテレビ出演等々。この約半年という限られた時間の中で、よくもこの曲数を録音したということを今さらながら驚いている。そしてそして引退や様々な出来事が変わった1980年が終わり、少しずつその変化に慣れ始めたころ百恵の引退後に発売されるレコードのミックスダウンや編集なども徐々に終了していき、百恵のためのスタジオワークがだんだん少なくなっていった。

その頃になってやっと、「ああ引退したんだなァ」という実感がわいてきた。


ちなみにまだアナログ・レコードの時代だったのである。

CDの登場は引退の約3年後で、山口百恵の現役時代は1枚もCDが出ていない。

このことをだけでも引退からの永い時間の経過が判るのだが、僕にとっての山口百恵は今後の僕の人生においてもビートルズと同様に色褪せていくことはないのだろう。

写真提供: 川瀬泰雄

写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト

ソニーミュージック 山口百恵公式サイトはこちら>


プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡

春告鳥

メビウス・ゲーム

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This is my trial

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