2015年08月09日
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2015年08月09日
ピーター、ポール&マリーやキングストン・トリオ、ブラザーズ・フォアといったアメリカのモダン・フォーク・コーラス・グループの歌を真似して英語で歌うフォークではなく、アメリカのフォーク・ソングの影響を受けながらも、それを自分たちのものにして日本語で歌おうとする自家製のフォークが日本で広がり始めたのは、1966年の後半のことだったと思う。そこで先駆者的な役割を果たしたのが高石ともやさん(登場して来た時は尻石友也と名乗っていた)で、彼に続くかたちで岡林信康さんが歌い始めたり、ぼくもまた高石さんと出会うことによって1967年の春頃から人前で歌い始めた。
そして1967年の暮れに京都のフォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」がラジオで流されたことがきっかけとなって大ヒットした。五つの赤い風船が高石さんと一緒にコンサートをしたり、東京で歌っていた高田渡さんが関西にやってきたりと、日本語でフォークを歌おうとする人たちの多くは関西を中心に動いていたことから、「関西フォーク」という呼び名が生まれたりもした。やがてそうしたフォークの歌い手たちをマネージメントする高石事務所が生まれ、多くの歌い手はそこに所属して日本中を歌って回り、69年の初めには彼らのレコードを制作して発表するURCレコードも誕生した。
67年から69年にかけて「関西フォーク」の多くの歌い手たちは、当時まだとても勢いがあって会員数も多かった日本共産党系の音楽鑑賞団体、労音の例会で日本各地を回り、関西では歌い手たちや彼らを支えるブレーン、それに熱心な聞き手たちが集まってのワークショップのようなフォーク・キャンプが何度も開かれた。
1969年8月9日に当時の岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)の椛の湖湖畔で開かれた第1回全日本フォークジャンボリー(通称中津川フォークジャンボリー)も、そうした「関西フォーク」の動きというか流れの上に開かれたものだった。ジャンボリーを企画し、演出し、開催したのは中津川労音の事務局長をしていた笠木透さんたちで(笠木透さんはその後フォーク・シンガーとして膨大な数の歌を作り、精力的な活動をして、日本のフォーク・ソングの歴史に大きな功績を残した)、ジャンボリー以前には高石さんたちの例会を何度となく地元で手がけていた。
9日の午後から始まったフォークジャンボリーは、地元や関西だけでなく、日本各地から2~3000人の人たちが集まり、ジャンボリーの前半は歌いたい人は誰でもステージで歌ってもいいということだったので、とてもたくさんの人たちが歌い、いつになっても終わることがなかった。出演者として呼ばれた人たちのステージが始まったのは夜も遅くなってからだった。
ぼくも出演者の一人として第1回全日本フォークジャンボリーに参加したのだが、出番は確か午前2時か3時頃で、ぼくの前に出演した五つの赤い風船が「雨よいつまでも降っておくれ」と歌ったせいかどうかは知らないが、降り出した雨は弱まることなく、ぼくがステージに上った時も激しく降り続けていた。ぼくはフォークジャンボリーに買ったばかりのギルドD-40を大喜びで持っていったのだが(初めて買ったアメリカのギター!!)、この日の激しい雨でびしょびしょに濡れてしまい、それ以降まったく鳴らなくなってしまった。
高石ともや、岡林信康、高田渡、五つの赤い風船、遠藤賢司、ジャックス、岩井宏、上條恒彦、田楽座、そしてぼくなどが出演した第1回全日本フォークジャンボリーのステージが終わったのは翌9日の午前9時半頃だった。この第1回全日本フォークジャンボリーは1966年後半から始まった日本語のフォーク、いわゆる「関西フォーク」のひとつの頂点を示すものとして捉えられ、その後も70年、71年と規模を拡大して続けられていくが、ぼく個人の考え方としては、人間関係にしても活動のやり方にしても、そして歌われている歌にしても、その時「関西フォーク」はすでに頂点を超え、壁にぶち当たり、難しい段階に来ていたのではないかと思っている。ぼくにとって第1回全日本フォークジャンボリーは頂点というよりも、終わりの始まりとして強く記憶に残っている。
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