2016年06月17日
スポンサーリンク
2016年06月17日
ヒデとロザンナのヒデこと出門英は、もともと水木英二の名でソロデビューし、ユキとヒデのデュオ時代を経て、1968年に結成したヒデとロザンナでヒットを飛ばして一躍スターとなった。パートナーのロザンナとはその後結婚し、二男一女に恵まれるも、出門英は90年に47歳の若さで病没。歌手だけでなく、俳優業や、作曲活動などでも活躍を見せていた才人の早逝はつくづく惜しまれてならない。平成になって間もない90年6月17日に出門英がこの世を去ってから、早26年もの月日が流れたことになる。
水木英二としての歌手デビューはかなり古く、東芝レコードから最初のレコード「東京ロマンチックガイ」を出したのは62年のこと。カバー・ポップス華やかなりし頃である。日活の第6期ニューフェイスに合格し、俳優活動と並行しての歌手デビューであったがヒットを出すには至らず、66年には佐藤由紀とのデュオ<ユキとヒデ>としてポリドールから再デビューする。翌67年に出された2枚のシングル「白い波」「スノー・ドルフィン・サンバ」はいずれも渡辺貞夫の作編曲によるボサノヴァ歌謡で、後に評価を得ることになるが、当時はヒットしなかった。ちなみにユキこと佐藤由紀は並行して藤ユキの名でビクターからソロデビューし、さらに芸名をアン真理子と改めた69年に「悲しみは駈け足でやってくる」をヒットさせるに至る。
68年にユキとヒデを解散した出門英は、同年にイタリア出身の少女、ロザンナ・ザンボンと<ヒデとロザンナ>を結成して、コロムビアから再々デビューを果たした。当初は「何にも言えないの」がA面であったが、有線のリクエストをきっかけに田辺信一作曲によるB面の「愛の奇跡」に人気が集まり、ジャケットも新たに刷り替えられて大ヒットする。正に3度目の正直といったところで、以降も筒美京平作曲の「粋なうわさ」や、中村泰士作曲の「愛は傷つきやすく」などヒットを連ねてスター街道を驀進した。デビューから5年ほどは作詞を一貫して橋本淳が担当した中で、70年初頭に出された4枚目のシングル「笑ってごらん子供のように」だけは、作詞が佐藤由紀、作曲が出門英、つまりユキとヒデのコンビによるものだった。コロムビア時代の74年までに17枚のシングル、75年からはワーナーへ移籍して、並行して出門英のソロ・シングルも出している。
作曲家としての活動は、ヒデとロザンナのアルバム曲もあったが、脚光を浴びたのは、77年に小柳ルミ子が歌ってヒットさせた「星の砂」であろう。作詞の関口宏とのコンビで話題となったこの曲、そもそもはフジテレビの番組で、タレントが作った歌をプロの歌手が競い合うという企画の優勝曲で、番組内では「八重山哀歌」のタイトルで由紀さおりが歌ったものであったが、当時ヒデとロザンナと同じワーナーパイオニアに所属していた小柳ルミ子が熱望して、シングル発売へと至った。その際にタイトルと歌詞の一部が改められている。日本では沖縄の西表島や竹富島など、サンゴ礁が拡がる地域の砂浜で見られる星の形をした有孔虫の殻と言ってしまえば興ざめだが、星の砂という言葉の響きは極めてロマンティックであり、歌のヒットによって実際にかの地を訪れた人も少なかったことだろう。観光事業にも大いに貢献したヒット曲であった。
「星の砂」がチャート2位の大ヒットとなった小柳ルミ子の次のシングル「湖の祈り」も関口宏×出門英が続けて手がけヒットしている。翌78年には森昌子にも曲を提供してヒットした。「彼岸花」は阿久悠の作詞による想いの込められた作品で、作曲家・出門英にとって「星の砂」と並ぶ代表作に挙げられる。甘いマスクで、俳優業にも復帰していた晩年には、テレビドラマや映画への出演も多くなっていたから、存命であればその経歴をさらに重ねていたと思われる。亡くなる数日前に公開された映画『東京上空いらっしゃいませ』が遺作となった。現在、ロザンナと三人の子供たちが父親の分まで芸能界で活躍しているのは実に喜ばしいことである。
1971年7月26日、小柳ルミ子のデビュー曲「わたしの城下町」がオリコン・シングル・チャートの1位を獲得した。この日から12週に渡って首位を独走、遂には71年の年間セールス1位を獲得するまでに至...
小柳ルミ子は宝塚音楽学校を首席で卒業した後、渡辺プロに入社し、1971年に「わたしの城下町」でデビューしていきなりヒットを飛ばした。72年の「瀬戸の花嫁」で日本歌謡大賞を受賞。その後も多くのヒッ...
本日5月2日は、今もなお個性派俳優・歌手として独自の道を歩み続ける夏木マリの誕生日。今日で66歳という年齢が信じがたい程、その仕事欲とパワーに圧倒されるばかりだ。1971年本名の中島淳子名義でデ...
1976年11月15日、研ナオコの「あばよ」がオリコン・チャートの1位を獲得した。この曲は研ナオコにとって初の、そして現在まで唯一のオリコン1位作品である。作品提供した中島みゆきは研ナオコが愛川...
今年でプロ生活47年目を迎えた野口五郎のポップス歌手としての事実上のデビュー曲。実際には演歌調の「博多みれん」に続く第2弾シングルであることはよく知られている事実だが、15歳にして夜の盛り場を廻...
「可愛いベイビー」で62年にデビューした中尾ミエ。デビュー曲はいきなり大ヒットとなる。同年に始まったフジテレビ『森永スパーク・ショー』で、同じ渡辺プロダクションの園まり、伊東ゆかりと共に司会を務...
3月16日はトワ・エ・モワ として、そしてもちろんソロ・シンガ-として幅広い活躍を続ける白鳥英美子の誕生日である。ある日、「或る日突然」で突然音楽シ-ンに現われたト・ワエ・モワの二人…。でもいき...
中国語圏の歌手では、欧陽菲菲(オウヤン・フィフィ)、アグネス・チャンに継ぐ人気者になったテレサ・テンだが、その存在は日本人が知っているよりはるかに大きなものである。大海のさざなみのような彼女のな...
1971年、尾崎紀世彦「また逢う日まで」が第13回日本レコード大賞に輝いた。しかし、この曲が大賞を受賞するまでの物語は、実に2年に及ぶ。ことの始まりは1970年初頭、ズー・ニー・ヴーのある曲から...
1973年12月3日、フィンガー5の「個人授業」がオリコン・チャートで1位を獲得した。 和製ジャクソン5と呼ばれた、日本のキッズ・グループの最高峰・フィンガー5は、玉元一夫、光男、正男、晃、妙子...
1970年代初頭、雑誌やCMのモデルから歌手や女優へと乗り出すのはちょっとしたトレンドであった。そんな中で登場した小林麻美はそのスレンダーな肢体と10代とは思えないアンニュイな佇まいを持ち、歯磨...
今日、7月31日は歌手・女優の岡崎友紀の誕生日。子役時代に既にミュージカルも経験済みという演技力&歌唱力に加え、コミカルな芝居やコント、バラエティ番組での立ち回りもお見事……というマルチ型アイド...
今からちょうど42年前(1973年)の今日7月5日にリリースされた安西マリア(本名:柴崎麻利子。1953年12月16日-2014年3月15日)のデビュー曲「涙の太陽」。当時20万枚を超えるセール...
1971年の6月1日に「17才」でデビューしてから約1ヵ月後に17才の誕生日を迎えた“歌手・南沙織”が生まれたのは、同年の2月にオーディションのために初来日した彼女が、リン・アンダーソンの「ロー...
70年8月にデビューしたのが、5人全員がハーフという触れ込みで結成された“ゴールデン・ハーフ”である。もっともデビュー・シングルとなった「黄色いサクランボ」のジャケットには5人のメンバーが写って...
1969年8月、「天使のらくがき」を引っさげ日本デビューした彼女は、未だ当時の洋楽界に於いては主流のひとつだったフレンチ・ポップスの若手女性歌手の一人だった。
今や特定芸能事務所とその所属タレントの集合体を指す名称としてだけでなく、若いイケメン野郎全般を意味する用語(この場合は語尾に“系”を付ける)としても広く認知されている「ジャニーズ」の語源的存在で...