2016年03月23日
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2016年03月23日
今日3月23日は映画監督、黒澤明の誕生日である。国内では振るわなかった『羅生門』(1950年/大映)が、海外で大いに注目を集め、ヴェネツィア映画祭金獅子賞を獲得して以来、「世界のクロサワ」として名実ともに最も知られた日本の映画監督となっていくのはご存じのとおり。徹底した映像美へのこだわりからか、同じく海外にも名が知られる成瀬巳喜男、小津安二郎、溝口健二等の監督に比すると、監督作品数は30と少ない。そんな黒澤の最終作『まあだだよ』(東宝)の公開が1993年。満88歳で世を去ったのが1998年と、彼が鬼籍に入ってから、いつしか18年もの月日が流れようとしている。
黒澤明と音楽との関係といえば、もちろん監督作品のサウンド・トラックを彩った映画音楽作曲家に注目しなくてはならない。歴代の音楽担当者には鈴木静一、服部正、早坂文雄、佐藤勝、武満徹、池辺晋一郎らの名匠が顔を連ねるが、中でも黒澤がひときわ深い信頼を寄せていたのが、作曲家:早坂文雄だという。早坂は黒澤よりも4つ年下の1914年生まれ。家庭の事情により音楽学校で学ぶことは叶わなかったものの、1934年には伊福部昭、三浦淳史らと共に「新音楽連盟」を結成。エリック・サティの有名作「三つのグノシェンヌ」などのピアノ演奏で日本初演の大役を果たしている。1939年には作曲家・音楽監督として東宝に入社し、以降は映画音楽の制作活動で知られていくが、その名を決定的にしたのは、やはり黒澤と組んだ数々の作品群だろう。
黒澤との初仕事は、1948年の『醉いどれ天使』となる。以降、前述の『羅生門』や『生きる』(1952年/東宝)、『七人の侍』(1954年/東宝)など、代表作として誰もが知る黒澤映画が、早坂の音楽とのコンビネーションによって作り出されていった。そしてさらに1955年に誕生するのが、東西冷戦下で繰り返される原水爆実験の問題に不思議な角度から斬り込んだ野心作『生きものの記録』(東宝)だ。
核実験による放射能への被害妄想に取り憑かれた老人と、彼に翻弄される家族を描いた作品だが、陰鬱になりがちなこうした重いテーマを、見ようによってはユーモラスに写る「老人の奇行」(しかも当時35歳の三船敏郎が、70歳の主人公を演じている)というクッションを挟んで扱うことで、悲劇と喜劇がないまぜになった、他の黒沢作品とは一味違う風合いの映画に仕上がっている。この舵取りの難しい映画への音楽制作に対し早坂は、効果・演出としての音楽を必要最小限しか付けず、レコード・プレイヤーから聴こえてくるマンボや、窓の向こうの隣家でギターを爪弾いている音などの「現実音楽」のリアリティに注力するという斬新な手法で対応。軍用機の爆音や雷の音と同じように、ドラマの途中に突然挿入される異物(非日常や狂気の象徴)としてこれらの音楽を扱うことで、日常生活が実は不安定なバランスの上に成り立っていることを匂わせる、という離れ業を演じてみせた。
しかし、娯楽大作として大ヒットを記録した『七人の侍』の次回作というギャップとタイミングが災いしてか、『生きものの記録』は入場者数が伸び悩み、記録的な興行失敗となる。そして、これが黒澤・早坂コンビによる最後の作品となるのだ。というのも、以前より肺結核を患っていた早坂だったが、本作の製作中に容態が急変、肺水腫により急逝してしまうのだ。享年41歳。あまりにも早すぎる死だった。『生きものの記録』の音楽も、早坂が残した資料を基に、実際には愛弟子の佐藤勝の手によって完成されたものだ。
そもそも、ビキニ環礁での水爆実験のニュースを見て、自分の健康状態と照らし合わせながら嘆き憂える早坂のつぶやきを耳にした黒澤が、そこから着想を得たのが『生きものの記録』の企画の発端だったという。その早坂本人が、フィルムの完成を待たずに他界してしまうとは、本当に皮肉な話である。早坂逝去の報に接した黒澤は悲嘆に暮れるあまり、撮影を1週間中断して引きこもってしまったという逸話が残されている。黒沢にとって早坂とは、それほどまでにかけがえのないパートナーだったのだ。
黒澤映画の中でも、ひときわマイナーな作品ではあるが、今だからこそ、もう一度見直すべき作品であることは間違いないだろう。現在、日本で起きている問題に直結する、様々な問いを投げかけながら心に迫ってくるはずだ。震災や原発事故を経た現在の我々にとって、公開当時とはまた違った意味合いを持つようになってしまった『生きものの記録』。ヒリヒリとした焦燥感を喉元に突き付けてくるようなミュージック・ソー(音楽用ノコギリ)の音が流れる冒頭のスタッフロールには、しっかりと早坂文雄の名が刻まれ、その横には(遺作)の文字が並んでいる。
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