2017年08月01日

8月1日は「ブルー・シャトウ」でレコード大賞を受賞したブルーコメッツのリーダー、ジャッキー吉川の誕生日

執筆者:鈴木清美

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グループサウンズ(GS)として唯一のレコード大賞受賞曲「ブルー・シャトウ」の大ヒットを放ったブルーコメッツのリーダーであるジャッキー吉川は、1938年(昭和13年)の8月1日に山梨で誕生した。本名は吉川浩一(よしかわ・こういち)。八王子第二小学校、八王子第四中学校(2年時に法政中学に転校)、法政一高を経て、法政大学に入学。大学2年時の1958年の暮れに、先輩である大橋道二氏の紹介でロカビリーバンドだったブルーコメッツにバンドボーイとして加わっており、来年でブルコメ参加から60年という節目を迎えることになる。


高校2年生の時、映画『グレン・ミラー物語』を観て感動し、一日中映画館に入り浸るほどだった。スウィングジャズの創始者と言われ、ビッグ・バンドの代名詞となったグレン・ミラー・オーケストラを率いたグレン・ミラーの半生を描く伝記的映画には、米国ジャズ界の巨人であるルイ・アームストロングと共に、ドラムをソロ楽器に昇華させドラマーをフロントスターに押し上げたといわれるジーン・クルーパも登場。ジャッキー吉川は、そのジーン・クルーパに憧れて、独学でドラムを始めたという。


「一人でドラムを叩いていてもなかなか上達せずに限界を感じるようになっていた時に、ブルーコメッツでベースを弾いていた大学の先輩でもある大橋道二さんから声をかけてもらい、ブルーコメッツにバンドボーイとして参加し、ステージを観て自分で勉強したり、ドラムを担当していたロジェ滋野さんからも教えてもらったりして、ドラマーとしての基礎固めができた」と振り返るジャッキー吉川は、その後、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズなどで経験を積んでドラマーとして一本立ちし、1961年に正メンバーとしてブルーコメッツに復帰した。


ブルーコメッツの“育ての親”ともいうべき鹿内タカシが留学のため渡米したのを受けて、20代前半という若さでリーダーに抜擢され、やがて「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」としてGS時代の幕を切って落とす実力グループへと導くことになる。


1957年に初代ブルーコメッツが誕生した当時は、ジャズやリズム&ブルースのスインギン・ビートを取り入れたウエスタンバンドである「ビル・ヘイリーと彼のコメッツ」の全盛時代で、そのグループ名に倣ったブルーコメッツも、ビル・ヘイリーのカバーなどを中心に演奏。仕事場はジャズ喫茶や米軍キャンプが中心だったが、1959年1月に来日したワンダ・ジャクソンに続き、同年6月から8月にかけて来日したジーン・ヴィンセントの全国ツアーではバッキングを務めている。9月にヴォーカルの竹田公彦が抜けると、ブルーコメッツは一時的に解散状態に陥ったものの、翌1960年の4月には再編されてメンバーも若返り、ヴォーカルとして鹿内タカシが加入、7月にはフランツ・フリーデルもゲスト参加するようになった。


ジャッキー吉川は、「ヴォーカルのメインとなった歌のうまい鹿内には、僕のドラムじゃ歌えないって毎日シゴかれ、クラシック出身だった三原綱木のギターも、ポップス系のフィーリングじゃないということで繰り返しダメ出しされながら、どうにかできるところまで鹿内がもっていってくれた。ブルーコメッツの基本を作ったのは鹿内のシゴきだったと思うし、鹿内がいたから音楽的に伸びることができた」と述懐しており、ロカビリーバンドからGSへと変遷していく過程で、鹿内タカシの存在は極めて大きかったようだ。


ジャッキー吉川が正式メンバーとしてブルーコメッツに復帰した1961年に、小田啓義もピアノとして加入。1962年に入ると、マネージメントに専念することになった大橋に代わり、ウエスタンバンドでベースを弾いていた高橋健二をスカウト。1963年8月に日大の学生だった井上忠夫がテナーサックスで加わり、1964年には同じ大橋プロダクションのファイヤー・ボールから三原が移籍、翌1965年の5月に一時的にブルーコメッツを離れていた高橋が戻って、GS時代のメンバーが揃った。


1965年8月には、日本コロムビアのCBSレーベルからブルーコメッツの単独名義による初レコードとなったEP「ヘルプ・ミー・ロンダ/グランド・ヒット・パレード第2集」がリリースされるが、ジャッキー吉川によると、「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」がグループ名として使われるようになったのはこの頃からだったという。


このEPでは、タイトル曲をはじめ収録曲の4曲すべてにコーラスが入っており、ヴォーカル&インストルメンタル・グループとしての試みがスタートしている。


ブルーコメッツがコーラスを始めたきっかけについて、ジャッキー吉川は、1964年にヴォーカルとして加わった尾藤イサオが新潟県十日町市の公演で電車に遅れてステージに間に合わず、「歌手がいなくてお客さんからブーイングを浴び、仕方なくダイちゃん(井上忠夫)が歌ったらウケて、歌も面白いということになった」と振り返っている。


「その頃からコーラスを入れることも含めて、ブルーコメッツの音楽的な方向性についてはダイちゃんに全て任せて、音楽的なリーダーとして彼に引っ張ってもらうことにした。初めての歌入りシングル盤として「青い瞳」を作曲したのもダイちゃんだったし、「青い渚」「ブルー・シャトウ」「マリアの泉」(英文タイトルは“Blue Fountain”)とブルーシリーズの曲が全て大ヒットして、紅白歌合戦に連続出場したり、レコード大賞をいただいたりすることができたのも、ダイちゃんの優れた音楽的才能に負うところが大きかったと思う」(ジャッキー吉川)


アマチュアグループを出自とするバンドも少なくなかったGSが一大ブームを巻き起こした当時、プロのミュージシャン集団だったブルーコメッツが「僕たちはGSじゃない」と突っ張ってみせる場面も少なくなかったが、半世紀という歳月を経た今、ジャッキー吉川は、「レコード大賞をいただけたのもGSの代表として評価された部分があってのことだったと思うし、自分たちの意図がどうだったかに関わらず、GSという音楽ムーブメントの中でグループの全盛期を迎えられたことには感謝したい」と語っている。


メンバーの平均年齢も80歳に近づき、「ブルー・シャトウ」のレコード大賞受賞から50周年に当たる今年、ジャッキー吉川とブルーコメッツは8月28日に東京・中野サンプラザで「ファイナル公演」と銘打ったライブを予定しているが、ジャッキー吉川は「メンバーが元気なうちに、あくまでも“中締め”というつもりでの『ファイナル』。今後も演奏が出来る間は活動を続けるつもりだ」と意欲を示す。


何れにしても、日本のポピュラー音楽史において、1960年代半ばにミュージックシーンを席巻したGSムーブメントが語り継がれていく限り、「ジャッキー吉川」という名前はブルーコメッツというグループの存在ととともに歴史に刻まれ続けていくことになるだろう。


ジャッキー吉川&ブルーコメッツ ファイナル公演in中野サンプラザ ~ブルーシャトウから50年~>


≪著者略歴≫

鈴木清美(すずき・きよみ):1955年生まれ。新潟県長岡市出身。幼少の頃から叔母や姉の影響で青春歌謡にどっぷり浸かるも、全盛期のザ・スパイダースとザ・タイガースを生で見てGSに転向。周囲の反対を押し切って、中1でブルコメ・ファンクラブに入会。1997年にホームページ「60年代通信」を開設、1960年代の大衆文化や生活文化への愛情を注ぎ込んでいる(「60年代通信」はリニューアル公開に向けて準備中)。

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