2017年11月03日

本日11月3日はブルーコメッツの全盛期を支えた稀代のギタリスト三原綱木の誕生日

執筆者:鈴木清美

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11月3日は、ジャッキー吉川とブルーコメッツのリードギター・三原綱木の誕生日である。


太平洋戦争の終戦から僅か3カ月後の1945年(昭和20年)11月、三原は家族の疎開先である新潟県東蒲原郡綱木村で誕生、父親によって生誕地の地名がそのまま名前として与えられた。


三原が2歳の頃、一家は東京・久我山に移り、さらに、小学校入学前には母親が洋裁店を開くため三鷹市に引っ越す。当時、進駐軍の米国兵も多かった三鷹市に住んだことが、三原の人生に大きな影響を及ぼすことになった。


父親が始めたトリスバーでは、当時は入手しにくかった洋楽のレコードを米軍のコネで仕入れ、三原がプレスリーなどのアメリカン・ポップスのレコードをかける手伝いをした。そして、三鷹駅前の小さなレコード店で米軍将校がギターを弾く姿を見かけた三原は、そのカッコ良さにたちまち虜となり、父親にねだって買ってもらったギターを片時も離さず、練習に明け暮れたという。


小学3年の時から三鷹市のギター教室に通い始め、中学3年になるとギター教室の先生に「君にはもう教えることがない。将来ギターで身を立てたいなら、ジャズギター(エレキギター)の方が稼げる」と言われ、ジャズ教室へ行くようになったが、ジャズ教室でも「ここまで弾けるんだったら、プロとして始めた方がいい」と勧められ、高校2年の時にジャズ教室の先生に紹介されたのが五反田のナイトクラブだった。三原は当時を、次のように振り返っている。


「セミアコースティックギターをテスコの小さなアンプにつないで演奏していた。クラシックギターをやっていたから楽譜も初見で弾けるんだけど、その代わり、譜面がないと弾けない。ずっと目でやってきたから、耳で聴いてコピーすることができず、すごく苦労したね」


クラブの仕事が忙しくなった三原は、高校を中退。クラブのバンドマスターに「若いんだからロックをやった方がいい」とアドバイスされ、複数のバンドを渡り歩いた後、最終的に辿り着いたのがブルーコメッツと同じ事務所に所属していたファイヤーボールだった。


「当時は、日劇で演奏を聴いて憧れたブルーコメッツと同じ事務所だということも知らなかったが、ファイヤーボールでも譜面なんかなくて『お前、これ弾け』と言われても分からない。『何、弾くんですか』って言うと、『これ貸すから、練習してこい』って渡されたのがジーン・ヴィンセントやニール・セダカのレコードだったんです」と三原は述懐している。


クラシックギターで培った確かな基礎を持ち、若くしてプロのバンドを渡り歩いたギターの腕前は事務所内でも評判となり、ほどなくファイヤーボールの兄貴分であるブルーコメッツから三原に「ウチへ来い」と声がかかる。


ブルーコメッツは1957年(昭和32年)に、のちにビートルズの日本公演を実現させる協同企画の永島達司社長が当時のバンドリーダー級のメンバーを集めて結成したロックンロールコンボで、1959年(昭和34年)に来日したジーン・ヴィンセントの全国ツアーでもバックバンドを務めるほどの実力派グループだった。


三原がブルーコメッツに加入したのは1964年(昭和39年)で、翌1965年(昭和40年)には一時ブルーコメッツを離れていたベースの高橋健二が復帰し、リーダーでドラムのジャッキー吉川、サックス・フルートの井上忠夫、キーボードの小田啓義というグループサウンズ(GS)時代を牽引した黄金期のメンバー5人が揃うことになる。


三原が加入した年の暮れ頃から、フォー・フレッシュメンなどを参考にコーラスの練習も始めていたブルーコメッツは、1966年(昭和41年)にリリースした初めての歌入りシングル「青い瞳(英語盤)」に続いて、7月に発売されたシングル「青い瞳(日本語盤)」もヒットし、年末にはNHK紅白歌合戦に初出場。GSが全盛期を迎えた1967年(昭和42年)に入ると、2月にリリースしたシングル「ブルー・シャトウ」が大ヒットして第9回日本レコード大賞を受賞すると同時に、紅白にも連続出場を果たして名実ともにGSのトップグループとして君臨した。


ブルーコメッツと言えば、三原と高橋が使っていたバイオリン型のファーストマンのギターとベースがグループのアイコンだったことでも知られているが、三原によると「ブルーコメッツで最初に使ったのはギブソンのフルアコで、ビル・ヘイリーが持っていたような分厚いやつだった」という。


「『青い瞳』が出たころはグレッチのセミアコで、ファーストマンのギターとベースは、ケンちゃん(高橋)と僕とファーストマンの社長の3人で研究しながら、あの形になった。ビートルズがホフナーのバイオリン・ベースを使っていたことも影響しているんだけど、最初は音があまり気に入らなかったのに、修正を重ねていくうちにだんだん良くなっていった」


ブルーコメッツが活動を再開した2000年には、ファーストマンが改めてブルーコメッツ・バージョンのバイオリン型ギターとベースを限定生産して大きな話題となったが、三原と高橋は現在もライブではそのギターとベースを愛用しており、オールドファンには懐かしいステージの光景が再現されている。


ブルーコメッツが全盛期を迎えた1967年(昭和42年)は、「ブルー・シャトウ」「マリアの泉」「北国の二人」という3枚のシングル盤がリリースされており、「ブルー・シャトウ」と「マリアの泉」は何れもA面・B面とも作曲は井上忠夫と小田啓義の手によるものだが、「北国の二人」のB面曲である「銀色の波」(作詞・橋本淳)では、三原が初めて作曲を担当した。


三原によると、「何か曲を作ってみたら」と声をかけてくれたのが、ブルーコメッツの一連のヒット曲を手掛けていた橋本淳で、「詞が先に出来ていて、言葉にメロディーをつけていった」という。「ただ、不思議なのは、あの頃、メンバーの中で一番若かった俺が作った曲でも、今聴いてみると“歌謡曲”になっていて、やっぱり、ダイちゃん(井上忠夫)の血が入っているんじゃないかなあ」と三原自身が振り返る「銀色の波」は、今年8月に中野サンプラザで開かれた“ファイナルコンサート”では、ブルーコメッツの全盛期にサブマネージャーを務めていた宇崎竜童がステージに登場し、ギター1本の弾き語りで見事な歌唱を披露して、三原を感激させている。


三原はその後、ブルーコメッツが本格的な歌謡曲路線への方向転換を示した曲として知られる「さよならのあとで」(作詞・橋本淳/作曲・筒美京平)に続いて、1969年(昭和43年)12月にリリースされた「雨の赤坂」(作詞・橋本淳)でも作曲を担当し、三原の手による初めてのA面曲としてヒットさせている。この「雨の赤坂」は、角川博が1999年(平成11年)に発売されたシングル盤でカバーするなど、知る人ぞ知るムード歌謡の名曲として歌い継がれており、三原の作曲家としての才能も裏付けるものとなった。


1972年(昭和47年)10月にGS黄金期のブルーコメッツが活動を停止すると、三原は同年12月に、“つなき&みどり”として「愛の挽歌」(作詞・橋本淳/作曲・筒美京平)をリリースしてヒットさせ、歌手としても存在感を示した後、“三原綱木バンド”を率いて郷ひろみのバックを務めるなど、多彩な音楽活動を続けた。


1980年代半ばからはビッグバンド「ニューブリード」のバンドマスターを務めており、最近までNHKの「歌謡コンサート」や「紅白歌合戦」で指揮棒を振っていた姿も、記憶に新しいところだ。


1967年(昭和42年)に「真赤な太陽」で美空ひばりのバックも務めたジャッキー吉川とブルーコメッツ。スタジオに現れた美空ひばりを見て、「誰、あのおばさん」と言い放ったという伝説を持つ三原だが、クラシックの素養と豊富な経験に裏打ちされたニューブリードでの見事なタクトは、今や大物演歌歌手らからも厚い信頼を得ており、歌謡番組の制作スタッフによる指揮者としての評価も高い。


三原自身も「ブルーコメッツでやってきて良かったと感謝しているし、だからこそ、ニューブリードのバンマスとしてやっていられるという思いはありますね」と語っている。

「北国の二人/銀色の波」「雨の赤坂/黒いレースの女」撮影協力:鈴木清美


≪著者略歴≫

鈴木清美(すずき・きよみ):1955年生まれ。新潟県長岡市出身。幼少の頃から叔母や姉の影響で青春歌謡にどっぷり浸かるも、全盛期のザ・スパイダースとザ・タイガースを生で見てGSに転向。周囲の反対を押し切って、中1でブルコメ・ファンクラブに入会。1997年にホームページ「60年代通信」を開設、1960年代の大衆文化や生活文化への愛情を注ぎ込んでいる(「60年代通信」はリニューアル公開に向けて準備中)。

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