2018年02月05日

1971年の本日、「戦争を知らない子供たち」がリリース

執筆者:小野善太郎

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まず北山修が詞を書き、それに杉田二郎が曲を付けた「戦争を知らない子供たち」は、1970年大阪万博の音楽祭で北山の司会により集団歌唱されたものが同年にレコード化もされていたが、ジローズ(第二次となる杉田と森下次郎のデュオ)のデビュー曲として翌1971年2月5日に発売。

20万枚超とヒットして、北山は日本レコード大賞の作詞賞を受けるなど大いに話題になった、はずが、オリコンのチャートでは最高11位。リアルタイムで体験していた私の感触では当然に1位か、少なくとも3位以内なのだが、意外に低い。「若すぎるからと許されないなら」と歌われてもいるし、同じタイトルの北山の著書で書かれているように、戦争を知っている大人たちの反発も少なからずあったようだから、そのためなのかもしれない。


とはいえ、コロンブスの卵のように誰もが思い付きそうで、しかし誰も書き得なかった詞は、誠に秀逸だった。

もっとも、戦争で父を亡くした娘が20歳を迎えて結婚する心境を歌った「戦争は知らない」(作詞・寺山修司、作曲・加藤ヒロシ)はフォークルもカヴァーしていたし、この歌を思い付くヒントになっただろうと思われるが、北山の出生日に着目すれば、彼にしか書けない、いや、誰よりも彼こそが書くべき詞だった、と私には思えてならない。


北山が生まれたのは1946年6月19日。戦争が終わったのは前年(昭和20年)の8月15日。北山は前記の著書で「私にとって、戦争を知らない子供たち、とは、昭和20年8月15日以後に生まれた、ということ以外に何の意味も持たない」と書いていたが、同著書には「小学校に入った頃、上級生が非常に少なく」ともあるし、終戦後に子作りをして生まれた子供たちは翌1946年の5月あたり以降に誕生することになるので、同じ戦後生まれでも、そのようなグループのほとんど先頭に位置していた北山は、幼い頃から「戦争を知らない子供」というコンセプトを強く意識していたのではないだろうか。


開戦することになる1941年より打ち出された「生めよ、殖やせよ」との国家の大号令下、1944年までは出生数220万人台をキープしていたが、終戦の1945年には約190万人、そして北山が生まれた翌1946年には約150万人と大きく下がった。

書き添えておくと、いわゆる「団塊の世代」の一般的な定義は第一次ベビーブームの1947年から1949年までの3年間に出生した層(その3年間は毎年約260万~270万人)とされる。それに先行する1946年生まれは「団塊の世代」では無く、かなり「小さな集団」だったのだ。


一方、日本のポピュラー音楽アーティストの誕生日を注視するならば、北山を始め、岡林信康、杉田二郎、ザ・タイガースを結成する瞳みのると森本太郎、そして吉田拓郎も1946年生まれ(4月5日生まれの拓郎だけは、前記の5月以降生まれのグループには入らないのだが)。また加藤和彦やタイガースの岸部一徳は1947年の早生まれで、学校では同学年となる。

そして、彼らが青年期となった1960年代半ば以降、高度経済成長で復興した日本では、若者群の中でも先行していたこの「小さな集団」の人気者たち、すなわちフォークル関係、タイガース、岡林、拓郎らに、その直ぐ後ろに控えていた膨大な数の「団塊の世代」が導かれた、または支持したという構図が実に興味深い。


なお、この「戦争を知らない子供たち」は最初に盟友・加藤和彦に詞を見せたところ、「こんな甘いのあかん」と突っ返されたという。その結果、同じ1946年生まれの杉田が作曲を担当することになったのだが、フォークルからの常連コンビだった加藤(1947年生まれ)や端田宣彦(1945年生まれ)ではなかったことも、ある必然性を感じさせてならない。

(余談だが、アマチュアの第一次フォークルが解散した後、「帰って来たヨッパライ」のヒットにより北山が主導して限定再結成することにした際、加藤以外の旧メンバーからは固辞されたので、3人目のメンバーとして北山は旧知の京都フォーク仲間で通う大学も向かい合っていて文字通り目の前に居た杉田を考えたが、加藤は京都南部の自宅同士が近くて入り浸っていたという端田を推して決まったという。そして端田が第二次フォークル解散からシームレスに結成したシューベルツに杉田は参加。その前に杉田は第一次ジローズでレコード・デビューもしていたが、やはり広く知られることになったのはシューベルツにおいて、でしょう。私は特に北山作詞・杉田作曲のシングル曲「朝陽のまえに」に新鮮な衝撃を受けたものだ)


加藤や端田が作ったとすると3フィンガー系フォーク曲のようになったかな?

しかし、杉田の真っ直ぐな力強い8ビートの曲調とクッキリとした男っぽいヴォーカルが、この詞が必然的に含む甘さを止揚した結果、戦後生まれの若者たちのアンセム(賛歌、祝い歌、ある意味で国歌、応援歌)になり得たと思う。

歌の1番でリード・ヴォーカルを取る杉田がまさしく一歩リードした後、2番では戦後の若者のある弱い部分をデュオの相手である森下次郎のリード・ヴォーカルが体現しているような感があるが、それを杉田は掛け合いのコーラスで鼓舞し、そして3番は2人で歌い上げるという弁証法のような構成も印象的。

ただし、杉田は決して脳天気に歌っていたのではなく、大いなる疑問も抱え続けていたのだが、かつての激戦地・沖縄でのコンサートの際、その地でこそ反発があれば一生封印しようとして歌った、そして、受け入れられて思わず泣いたという。


もはや戦後生まれは人口の8割以上を占めるが、一方で昨2017年の出生数は統計調査が始まった1889年以降で初めて100万人を割り込んだ2016年をさらに下回る約94万人とか。いわゆる少子高齢化、どうなる日本の将来。


…てなことまでも考えさせられる歌、かどうかはともかくも、私がこの歌をリアルタイムで聴いていた若き頃、また戦争を起こすのは愚かな戦争をやらかした大人たちと思い込んでいたものだが、むしろ戦争を知らない勇敢な子供たちこそが次の戦争を起こしてしまうのかもしれない。

が、ともかく、世界の有様を見回しつつ、まだこの歌が有効なまま歌われ続けている国の民であることは人類に対しての誇りとしたい。もちろん、憲法9条と同じく、ただ唱えていれば戦争が起きない訳ではないにしても。


≪著者略歴≫

小野善太郎(おの・ぜんたろう):高校生の時に映画『イージー・ライダー』と出逢って多大な影響を受け、大学卒業後オートバイ会社に就職。その後、映画館「大井武蔵野館」支配人を閉館まで務める。現在は中古レコード店「えとせとらレコード」店主。 著書に『橋幸夫歌謡魂』(橋幸夫と共著)、『日本カルト映画全集 夢野久作の少女地獄』(小沼勝監督らと共著)がある。横浜の映画館シネマノヴェチェントにて「甦る大井武蔵野館」企画の際は支配人として復活。

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