2018年02月21日
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2018年02月21日
本日2月21日は、井上順の誕生日。早いもので、もう71歳を迎える。
唐突ですが、筆者お気に入りの「最近のバンド」は、名古屋を拠点として活動する女の子5人組「テト・ペッテンソン」だ。素朴な生楽器の音色と、女の子らしい純真な生意気さが溢れる楽曲で、全国でも徐々に注目を集め始めているが、そのユニークなバンド名に聞き覚えがある人も少なくないはず。2002年にNHK「みんなのうた」で放送され、摩訶不思議な歌詞とアニメーションで注目を集めた、そのバンド名と同じタイトルの曲「テトペッテンソン」を歌っていたその人こそ、本日の主役・井上順だったのである。ザ・スパイダースでレコードデビューを飾ってから38年目にしての予期せぬヒットに、本人もさぞびっくりしたことだろう。
そのスパイダースに彼が参加したのが、1964年2月のこと。1年後「フリ・フリ」で本格的レコードデビューを飾るのに向け、彼が持っていたアイドル的素質が、英国流ビートグループの王道への進化をさらに加速させたのは間違いない。ここで堺正章とのツインフロントという、大きな売りが形成されたのだ。
とはいえ、シングルA面でのリード・ヴォーカルは、66年12月に出た通算7枚目の「なんとなくなんとなく」が初めてだった。スパイダースの映画に於ける、女の子にモテすぎてマチャアキにやきもちを妬かれるというパブリックイメージは、この曲だけでも雄弁に物語ってくれる。モンキーズに於けるデイビー・ジョーンズ的ポジションなのに、歌を歌えばリンゴ・スターみたいな、そんな感じ。
68年10月リリースされた、グループ結成7周年記念アルバム『明治百年、すぱいだーす七年』の、メンバー全員のソロをフィーチャーするという試みを実践したA面では、初めての自作曲「二人のダンス」を披露。続く加藤充の唯一のソロ曲「白い波の少女」と並び、アルバムの中でもほっこりする瞬間を提供してくれた。
70年代に入り、日本のロック界がラジカルな方向にシフトする中、マチャアキと順の二人はエンターテインメントのより本筋を指向すべく、新たな道へと歩き始める。スパイダース在籍中の70年4月、かまやつひろし作曲・井上堯之編曲による「人生はそんなくり返し」を初のソロシングルとしてリリース。これはあくまでもプレデビュー的なものだったが、その1年後、グループが解散した直後に出した「昨日・今日・明日」で名義を井上順之と改め、本格的ソロ活動を開始した。お茶の間に浸透した人気のおかげで、オリコン最高7位と快調な滑り出しを見せ、ベスト10に同時に顔を出していたマチャアキの「さらば恋人」に肉薄するヒットとなった。とかくビートルズのある曲に似ていると言われることが多いこの曲だが、個人的にはこれまた同時期にリリースされたリンゴの初ソロヒット曲「明日への願い」に違和感なく繋げられる曲という感じがする。
続く第2弾シングル「お世話になりました」は、前作やその次のシングルでオリコン最高12位を記録した「涙」よりもヒット成績が下(オリコン17位)というのが信じられない、個人的にも忘れられない名曲中の名曲。筒美京平のメロディーも絶品だが、山上路夫による歌詞に登場する、下宿のおばさんとか煙草屋のおばあちゃん、お蕎麦屋のおじさんといったキャラクターが、人情とは如何なるものかをいつの時代でも教えてくれる。健在なのか廃れたのかよくわからない角の煙草屋さんの前を寂しく通りかかる度に、ハイライトくれたりするのかなぁと、未だに真顔で思ったりしてしまう。そして、そんな人情たっぷりの人生の先輩像に、ぴったりはまってしまう象徴的存在となったのが、現在の井上順かもしれない。
「涙」に続くシングル第4弾で最後のチャートヒット「幸福泥棒」に関する些細なことは、以前ピンク・レディー「渚のシンドバッド」についてのコラムに少々書いたので、面倒でもお読みいただければ幸いである。71年には青木エミと電撃結婚という話題もあり、夫婦でリリースしたアルバム『ラブ/順之とエミの世界』は、まるでポールとリンダのアルバムのような、パーソナルかつ頬が緩む一枚だが、その後の離婚により黒歴史化してしまったのが残念。72年以降も地道にシングルのリリースが続いており、いずれも彼の性格を物語るようなほのぼのとした楽曲揃いだが、何といってもその後の活動の中では、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」の司会者を絶対避けて通れない。彼と芳村真理の名コンビがリードした76年〜85年のこの番組は、日本のポップス黄金時代の凝縮図であった。筆者もドキドキしながら観たサザンやYMOのテレビ初登場、山口百恵の最後のテレビ出演、伝説となったU2を筆頭とする海外アーティストの出演に至るまで、彼のペーソス溢れる司会は、常に効果的演出の一部として機能していた。
永らく「黄金期メンバーが全員生き延びているバンド」の座をキープしていたザ・スパイダースも、昨年ムッシュが亡くなったことにより、惜しまれつつその勲章を失くしてしまったが、順を始めとする他のメンバーには、可能な限り走り続けていてほしい。若い奴らに対するいい生き方の指南役に、まさにうってつけの一人。でも、将棋では負けないで下さいね。
スパイダース「なんとなくなんとなく」 井上順之「昨日・今日・明日」「お世話になりました」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 5月3タイトルが発売された初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の続編として、新たに2タイトルが10月25日発売された。
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