2017年10月24日
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2017年10月24日
「ザ・スパイダース」というバンド名の名付け親は、ムッシュかまやつの父ティーブ釜萢だが、その名前に込めた意味は「蜘蛛のように世界中に巣を張りめぐらし、誰もやったことのないような活動を展開する」だった。そんな命名者の想いを体現すべく、スパイダースは本格的ビート・グループとしての体裁を整え、65年5月にクラウンより「フリフリ」でレコード・デビュー後は、世界市場をも視野に入れた活動を展開していく。
その第一歩とも言えるのが、オランダに本社を持つ国際的な家電メーカー傘下のレコード会社「フィリップス」とカタログ供給契約をしていた日本ビクターのフィリップス事業部(フィリップス・レーベル)への移籍で、65年12月にはフィリップス・レーベルからの第一弾シングルとなる「ノー・ノー・ボーイ」をはじめ、「フリ・フリ’66」(「フリフリ」の英語詞リメイク・ヴァージョン)、「リトル・ロビー」「ビター・フォー・マイ・テイスト」といった、翌66年4月にリリースされる初アルバム『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』収録曲のレコーディングもスタートしている。
翌66年3月、フィリップス・インターナショナルを通して、オランダで「フリ・フリ’66」と「ビター・フォー・マイ・テイスト」をカップリングしたシングル、米国で「ノー・ノー・ボーイ」と「ビター・フォー・マイ・テイスト」をカップリングしたシングル、オーストラリアでは、前年12月に録音した4曲を収録したEPがリリースされた。記念すべきスパイダースの海外発売第一号作品である(残念ながら、どれもヒットには至らなかったが…)。
66年9月15日、フィリップスにおける3rdシングル「夕陽が泣いている」がリリースされ、「Sad Sunset」のタイトルで英語詞ヴァージョンも作られた。オランダ・フィリップスは、「Sad Sunset」と「ヘイ・ボーイ」をカップリングしたシングルのヨーロッパ全域と東南アジアでの発売を決定。そのプロモーションのために、約3週間に亘りヨーロッパ各地を廻るツアーも決まり、今から51年前の今日1966年10月24日午後10時、スパイダース一行を乗せたKLMオランダ航空機は一路アムステルダムを目指して羽田を飛び立ったのである。
前述の海外盤シングル「Sad Sunset」の発売日である10月25日にアムステルダムの空港に到着した7人を出迎えたのは、報道関係者、フィリップスの本社関係者、そして、フィリップス社が仕込んだ約100人ほどのティーンエイジャー達だった。同日午後3時からは、宿泊先のホテルのレセプション・ルームで記者会見が催され、ヨーロッパ各紙の音楽記者、テレビ、ラシ才の報道関係者の前で、「Sad Sunset」「ブーン・ブーン」「アラウンド・アンド・アラウンド」を披露。翌26日のオランダの朝刊各紙は一勢に日本からやってきたスパイダースのことを報じており、この時の誌面の一部が、のちにアルバム『スパイダース’69』のフロント・カヴァーに使われている。
その後、パリ(27日~30日)→ローマ(31日~11月2日)→ハンブルグ(3日~10日)→コペンハーゲン(6日~7日)→ロンドン(8日~10日)→アムステルダム(11日~13日)とツアーは続き、各地でフィリップスがセッティングした記者会見、テレビ・ラジオ出演が行なわれ、ローマ、ハンブルグ、コペンハーゲンでは地元のクラブ(ハンブルグではあの「スター・クラブ」) で演奏も披露している。 ロンドンでは人気音楽番組『レディ・ステディ・ゴー!』に日本人としては初出演。「Sad Sunset」(英国では11月18日発売)と「ブーン・ブーン」を演奏した。この時の出演バンドの中にスペンサー・デイヴィス・グループがいて、スパイダースは日本から持ちこんだものの税関の問題で日本に持ち帰ることのできないヤマハ提供のギター類一式を彼らにプレゼントしている。
66年11月14日、プロモーション・ツアーを終え羽田空港に降り立ったスパイダースを待ちかまえていたのは、空港の送迎デッキを埋め尽くし嬌声を上げる少女たちの大群であった。スパイダースの留守中に、日本では「夕陽が泣いている」は大ヒットし、今やスパイダースの名前を知らぬ人はいないほどに有名な存在となっていたのである。
まるでビートルズのニュース映像のような光景を見て、スパイダースの面々は誰かハリウッド俳優でも到着しているのかと思い、それが自分たちのファンであると認識するまでかなりの時間を要したという。ヨーロッパ各地で顔と名前を広め、国内でもトップの座を獲得したスパイダースにふさわしい、まさに凱旋帰国そのものだったのだ。
「スパイダース'69」写真提供:中村俊夫
≪著者略歴≫
中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。
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