2018年09月12日
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2018年09月12日
9月12日は、あがた森魚の生誕日となる。1948年(昭和23年)に北海道の留萌市で産声をあげた。父親の仕事の関係から転校を繰り返すことになるのだが、小学校は小樽の入船小学校に通った。ここで担当だったのが佐藤敬子先生で、『海底二万哩』のモネ船長を教えてくれた佐藤先生との思い出は『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど』としてあがたのアルバムにもなっている(2001年発売)。また現在、ドキュメンタリー映画『アガタカメラ〜佐藤敬子先生を探して〜』の製作が進められている。
あがた森魚は明治大学に進学、関東での暮らしを始めるのだが、ここで鈴木慶一と歴史的な出会いを果たす。この時の待ち合わせの目印が「フランク・ザッパの『フリーク・アウト』を大音量でかけている家」だったのはあまりにも有名な話。この邂逅が、ミュージシャンあがた森魚を、そして、はちみつぱい〜ムーンライダーズを生み落とすこととなったのだ。
その後あがたは、自主制作盤の制作を経て、72年に三浦光紀が発足させたベルウッド・レーベルより「赤色エレジー」でデビュー。この曲は大ヒットを記録したのだが、このことがあがたにとっても、ベルウッドにとっても、大いなる追い風となっていった。
はちみつぱいの面々とともに、72年にアルバム『乙女の儚夢』を制作、ついで翌年、元はっぴいえんどの松本隆のプロデュースの元に『噫無情』を発表する。これらの作品では、ノスタルジックでありながらも、まったく新しい、あがた森魚ならではの世界観をうち立てた。このあがたワールドをさらに押し広げたのが、細野晴臣らと一緒に作った76年の『日本少年』なのだ。まさに傑作、日本のフォーク・ロック史に残る金字塔だといえる。
ここまででも、普通のミュージシャンならば一生かけても出来ないほどの偉業を達成したのだが、この後の創作作業には凄まじいほどの勢いがある。80年代初頭には、自らをA児と名乗り、ニュー・ウェイヴ色の濃いヴァージンVSを結成。シンセをフィーチャしたダンサブルな音楽を展開した。
87年には本格的なアルゼンチン・タンゴに挑んだ『バンドネオンの豹』を発表、93年には、大瀧詠一、山口百恵、ザ・ピーナッツ、藤山一郎などの名曲をカヴァーしたアルバム『イミテーション・ゴールド』をリリースしたが、このアルバムもアラブのライ・ミュージック風のアレンジメントがなされていたり、一筋縄ではいかない快作だった。
2000年以降の制作スピードが尋常ではなく、2001年の『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど』に始まり、『俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け』(2011年)、『誰もがエリカを愛してる』(2011年)、山崎優子と共同で作った『コドモアルバム』(2012年)、映画に材をとった『女と男のいる舗道』(2012年)など、怒濤のようなリリースだ。
2014年から15年にかけて、『浦島64』『浦島65BC』『浦島65XX』と浦島三部作を発表。また2017年には、再結成したはちみつぱいとタッグを組んだアルバム『べいびぃろん』を発表した。まったくもって、この創作力はどこから生まれるのだろうか。すでに他のミュージシャンの何倍もの人生を送っているように思える。
あがた森魚「赤色エレジー」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
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