2018年10月11日
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2018年10月11日
アイドルという存在が今のような形になったのは、新三人娘(小柳ルミ子、南沙織、天地真理)出現で、そしてそれを決定的にしたのが、花の中三トリオ(森昌子、桜田淳子、山口百恵)だ。その強力な2組のトリオに挟まれ輝いたのが、麻丘めぐみというアイドル歌手だった。
‘72年4月、新入社員として平凡出版(現マガジンハウス)に入社した私は、月刊『平凡』編集部に配属された。5月の連休明けの頃だと思うのだが、上司から「6月にデビューする麻丘めぐみを担当して!」との声が。デビュー直前の時点で担当をつけるというのは、“売れる”と編集部が確信したということだった。ライバル芸能誌だった月刊『明星』も担当をつけた。
デビュー曲のサンプル盤、アーティスト写真では、彼女を知っていたが、担当者として彼女に挨拶に行った時、想像以上に長身でスリム、瞳が大きくて、姫カットと言われたロングヘアーが魅力的で、かつ清楚な女の子、と感じたが、それ以上に間近で見たステージ衣装のミニスカートからスラリと伸びた脚に圧倒された(プロフィールでは、身長162㎝となっていたが、後日、彼女から聞いた話では、本当は165㎝あったのだが、当時の感覚では、アイドルは、あまり背が高くてはいけないということで、“低め”詐称したとのこと)。
デビュー曲「芽ばえ」は、麻丘めぐみのデビュー前年に「また逢う日まで」で、レコード大賞、歌謡大賞をダブル受賞して黄金期に入ろうとしていた作曲家・筒美京平の作品で、爽やかなイントロとサビの「離れない」というフレーズの、やや鼻にかかった歌声、膝を屈伸するような仕草がヒットの要因かと推測する。そしてデビュー1年後にリリースのシングル第5弾「わたしの彼は左きき」の大ヒットでアイドルの頂点に立つ(「わたしの〜」は、発売日よりかなり前にレコーディングを終えており、録音直後から早めに出すべき、という声もあったとか)。
という通り一遍のことはさておき、私が冒頭で述べた麻丘めぐみは新三人娘と花の中三トリオの狭間に誕生した、ということが当時の歌謡曲シーンにおいては重要なことだった。
新三人娘と花の中三トリオの6人を間近に目にしたし、南沙織を除き5人とは会話を交わした。この6人は160㎝の小柳を除き、’70年代の女性として平均的な身長であったし、スタイルも平均的なイメージだった。しかし前述したように麻丘は、今に置き換えれば、170㎝以上の長身でミニスカートの似合う肢体であると想像に難くない。『東京ガールズコレクション』に出演しランウエイを闊歩する存在になっているだろう。
新三人娘が、流行歌手がルックスと性的な匂いを持った“アイドル”歌手という目新しい存在の嚆矢になったと私は思う。そこに、追い討ちをかけるようにスーパールックスを持った麻丘めぐみが登場した。
そう言えば、芸能誌のキラーコンテンツに、マイホーム拝見という企画があり、彼女の自宅にも押しかけた。当時、渋谷区の初台・不動通りにあった自宅は、母親と歌手デビューしていたが一時休業中だった姉・藤井明美さんの3人住まいだった。そこでお目にかかった母親と姉も美形であったのに驚いた覚えがある(ちなみに父親は仕事の関係で同居していなかった)。
後を追うようにデビューした花の中三トリオも、人気としては麻丘めぐみと遜色ないものか、それ以上のものかもしれないが、麻丘めぐみは、天から授かったと思われる、その顔かたちと姿態を武器としたアイドル歌手としては稀有な存在だったと思う。
そのアイドルとしての存在の輝きは、結婚で一時引退するまでの5年ほどの歳月であったが。
ただこの結婚の性急さに違和感を抱いた覚えがある。実は結婚の年の正月、彼女はプライベートなパリ旅行を楽しんでいた。同時期、私もパリを訪れることになっており、急遽、彼女とパリで落ち合うことになった。というのは、笑い話のような話だが、パリで羽を伸ばしすぎたのか、母親にお金がなくなりそう、との国際電話を入れてきた。当時は現在のように簡単に外国に送金することや、クレジットカードでキャッシングできるような時代でなかった。たまたま私が、めぐみに遅れてだが同時期にパリに行くと知った母親から、パリで渡すようにとお金を預かった。そこでパリで彼女に会った私は預かったお金を渡したのち、パリ観光や食事を共にしたりジャズクラブに行ったりと楽しい一日を過ごした。その時の印象では、とても恋をしているとか結婚を考えているようには感じられなかったのだが。
個人的な想いかもしれないが、麻丘めぐみの評価は、新三人娘と花の中三トリオに比べ低いように感じるのは華やかだった時期を身近に過ごしたものの僻みだろうか?
麻丘めぐみ「芽ばえ」「わたしの彼は左きき」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
友野耕士(ともの・こうじ):1948年生まれ。1972年平凡出版(現在のマガジンハウス)に入社。72年から73年まで月刊『平凡』編集部グラビア・デスクに在籍。その後、幾つかの編集部に在籍し、フォーク、ニューミュージックのアーティストから、キャンディーズなどのアイドル、五木ひろしなどの演歌歌手、洋楽のミュージシャンまで、幅広い音楽シーンで取材を行う。その後は『Hanako』編集長などを歴任。
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