2018年11月16日
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2018年11月16日
ジョン・レノンのソロ・シングルで初めて1位になった曲は?
と、前回に書いた「サムシング」「カム・トゥゲザー」に続いて、またいきなりクイズじみた問いかけから始めてみる。すぐに思い浮かびそうな「イマジン」ではない。答えは、今回取り上げる「真夜中を突っ走れ」である。それまでの最高位は、イギリスでは69年の「平和を我等に」の2位で、アメリカでは「インスタント・カーマ」と「イマジン」の3位だった。ちなみに、「イマジン」がイギリスでシングル・カットされたのはベスト盤『ジョン・レノンの軌跡(シェイヴド・フィッシュ)』)に合わせた75年のことで、その時に初めてイギリスで1位を獲得している。
「真夜中を突っ走れ」は、74年10月4日にアルバム『心の壁、愛の橋』と同時にシングルとしても発売され、11月16日に1位となった曲だが、やはり、人気者エルトン・ジョンとのデュエットの「効き目」は絶大だった。ポール・マッカートニーで言えば、スティーヴィー・ワンダーとの「エボニー・アンド・アイヴォリー」やマイケル・ジャクソンとの「セイ・セイ・セイ」と同じ効果だ。
参加メンバーは、ジョン(ギター、ヴォーカル)とエルトン・ジョン(オルガン、ピアノ、ハーモニー・ヴォーカル)に、ジョンと顔馴染みのジェシ・エド・デイヴィス(ギター)、エディ・モットー(アコースティック・ギター)、クラウス・フォアマン(ベース)、ケン・アッシャー(クラヴィネット)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、アーサー・ジェンキンス(パーカッション)、ボビー・キーズ(テナー・サックス)を加えた総勢9人という顔ぶれだった。
この時期、ヨーコと別居(「失われた週末」として知られる)していたジョンは、2人の個人秘書だったメイ・パンを連れ立って、ニルソンやキース・ムーンら、飲んだくれのミュージシャンとともにやんちゃで不健康な日々を送っていた。
『心の壁、愛の橋』に収録された曲は、「喪失感」をテーマにしたものも含めて「失われた週末」時の体験を元にしたと思われる曲が多い。そうした中で、邦題も秀逸な「真夜中を突っ走れ」は、もともとテレビ好きのジョンがたまたま目にした、福音伝道者が発した一言 “Whatever Gets You Thru The Night”を曲名にも引用したものだった。テレビでの、アルコール中毒患者の質問に答えての発言だったらしいが、酒を浴びるように飲んでいた当時のジョンにとっても、印象的な一言だったにちがいない。
お金をかけようが命を懸けようが、間違っていようが正しかろうが、お前が夜を乗りきれ、人生を生き抜けるなら、それでいい――歌われているのはこんな内容だが、当時のジョンは、一歩間違えたら死んでいたかもしれないような無謀なふるまいをあちこちで起こしていたのだから、まさしく自分に向けての歌だったと言ってもいいだろう。
とはいえ、ジョン自身は、この曲を必ずしも強力だと思っていたわけではない。むしろ自分のラッキー・ナンバーをタイトルに盛り込んだ「夢の夢(#9 Dream)」や、メイ・パンのことを歌った「予期せぬ驚き(Surprise, Surprise)」をシングルに推していた。「真夜中を突っ走れ」をシングルに推したのは、『ロックン・ロール』のセッション・テープをフィル・スペクターから取り戻したアル・コーリーだった(ウイングスの『バンド・オン・ザ・ラン』からのファースト・シングルに「ジェット」を推したのもアルだった)。
そして、これは有名なエピソードだが、そんなジョンに対して『「真夜中を突っ走れ」がアメリカで1位になったらライヴにゲスト出演してほしい』とエルトン・ジョンが伝え、それが現実となったのだった。
ジョンはその約束を守り、11月28日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行なわれたエルトンのコンサートに飛び入り出演し、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「真夜中を突っ走れ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」で共演した。飛び入りしたこの3曲は、ジョンの死後の81年3月に12インチ・シングルとして発売され、その後、エルトン・ジョンの『ヒア・アンド・ゼア~ライブ・イン・ロンドン&N.Y.』(76年)のリマスター盤(95年発売)にも収められた。また、2005年の『心の壁、愛の橋』のリミックス&デジタル・リマスタリング盤にも、「真夜中を突っ走れ」のみ、ボーナス・トラックとして収録されている。
もうひとつ、これも有名な話として、そのコンサートをお忍びで観に来たヨーコは、終了後に楽屋で久しぶりにジョンと再会し、これを機に、翌75年2月にジョンはダコタ・ハウスに戻ったのだった。ただし、メイ・パンに言わせると、「ジョンも私もヨーコが来ることを知っていたし、私たちが席を準備した」となるわけだけれども。
こうして、ヨリを戻した2人の間に、75年10月9日(奇しくもジョンの35歳の誕生日)に息子ショーン・タロウ・オノ・レノン(Sean Taro Ono Lennon)が誕生した。名付け親はエルトン・ジョンだった。
ジョン・レノン「真夜中を突っ走れ」ジャケット撮影協力:中村俊夫
≪著者略歴≫
藤本国彦(ふじもと・くにひこ):『ビートルズ・ストーリー』編集長。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド 増補改訂新版』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』『ビートルズは何を歌っているのか?』『ビートルズはここで生まれた』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめ ビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
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