2018年12月18日
スポンサーリンク
2018年12月18日
キース・リチャーズが生まれたのは、1943年12月18日、イギリスのケント州ダートフォードのリヴィングストーン病院。それは第二次世界大戦の真っ最中で、ヒトラー率いるドイツ空軍がイギリス空襲を繰り返していた頃である。 しかも、キースの家族は爆撃の多い地域に住んでいたので、生き延びたのは奇跡に近いと本人は語っている。その後も、まるで死神に取り憑かれたような激動の人生を歩み、現在まで生き延びてきた。その彼が生きて75歳を迎えると言うのは、なににも増して、実に喜ばしい事である。
僕が最初に若きキースを見たのは、高校生の頃で友人の持っていたザ・ローリング・ストーンズのアルバム『Out Of Our Heads』のジャケットである。一番手前に顔が大きく映っているので、その時てっきりバンド・リーダーだと思った。その頃、僕はザ・ビートルズに夢中になっていた事もあり、友人の薦めも虚しく、素通りしただけだった。がしかし、その後しばらくして、アルバム『Get Yer Ya-ya's Out』の裏ジャケットに小さく載っていたキースの写真を見た時に何かときめく胸の鼓動を感じた。その時から妄想の中で、キースのイメージが勝手に大きく膨らんでいき、やがて一番のお気に入りになり、そして我が青春のヒーローとなり、やる事為す事の全てに興味を抱くようになっていた。つまり、僕は耳からではなく、眼からキースに憧憬の念を抱くようになったと言っていいだろう。
しかしながら、’70年代初頭当時にストーンズの情報は少なく、虚飾のイメージはどんどん膨らむばかりであった。1973年9月にロンドンまでストーンズを観に行き、舞台上のなま身のキースを観てからも、敬愛の情熱と興味は継続的に肥大するのであった。当時、英国の雑誌『NME』に掲載された記事には「今にも死にそうなロックスター第1位、キース・リチャーズ」というのがあった。確かにウエンブリーで実際に見たキースの印象は、どこか足許が覚束無く、頬がやせこけ青白く病的で、よろよろした感じで激しいギター演奏を披露していたので、意味も無く頭に浮かんだのは「デカダンスの系譜」であった。文学で言えば、オスカー・ワイルドやユイスマンス、ボードレールにランボー、ロートレアモンであり、あるいは没落する貴族の末裔的なイメージで、印象は耽美的で自己破滅的なイメージであった。ロックンロールやブルースの求道者というよりも、危険な芸術至上主義者で反社会的であり、常識や欺瞞や健康的なものを嫌い、今にも死にそうなジャンキーそのものに見えた。しかし、それらのイメージが、次第に自身によって巧妙に演出された虚像であった事が、明らかにされる。それでも60年代に、ビートルズに対抗してアンドリュー・ルーグ・オールダムによって発想されたパブリック・イメージは、その後長らくストーンズのイメージ、とりわけキース・リチャーズのイメージとして社会に伝播し、キース自身もそれに呪縛される羽目になった。ひとたび冠った仮面を引きはがすのは、なかなか難しいものである。
1988年12月4日、ボストンのオフィウム・シアターの地下にある楽屋で、セキュリティ・チーフのジム・キャラハンの案内もあり、初めてキース本人と直接面会し、話をする機会に恵まれた。その年の春、ミック・ジャガーの単独来日公演があり、ストーンズは解散の危機にあると世情は噂していた。その年9月、シドニーで直接ミックに会った時に「心配しなくていいよ、来年(1989年)ストーンズは活動するよ」と僕に言ったのだが、それを訝しく感じ、その確認をしたくてキースのソロツアー・ワイノーズ全米公演を約1ヶ月、物の怪に取り憑かれたように、追いかけたのだった。その時に一瞬で、それまで思い描いてきた「キース・リチャーズのパブリック・イメージ」は吹き飛ばされ、新たな実像が湧き上がったのだった。キースは、オフィウム・シアター地下の配管だらけのホスピタリティ・ルームに突然現れた。ニコニコ笑顔で仲間と冗談を言い合っていたキースが、緊張と興奮でガチガチに固まっていた僕を察知して、急に真面目な表情になり、「ミックがそう言ったなら、俺も同感だ。だが今はワイノーズを楽しんでいるので、ストーンズの話はよそう」と実直に言い切った表情は今までのイメージとまるで異なっていた。とても柔和で周囲に気遣いのある、そしてゆっくりとした物静かな思慮深い話し方に僕はおどろき失神しそうになった事を思い出す。その後も、福岡でインタビューをしたり、プライヴェート・パーティーに参加したり、何度となくなま身のキースに接してきたが、なによりもサウンド・マニアであり、職人気質の音楽家であり、愉快なアイデアが豊富で、実直で真面目なキース・リチャーズ。ユーモアと人間味に溢れ、今でも多少の社会常識や規範を破り、自分の哲学とスタイルを守り抜くキース・リチャーズ、彼の75歳誕生日に感謝を込めて祝杯をあげたい。
≪著者略歴≫
池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。
4月29日はミック・ロンソンの命日である。デヴィッド・ボウイがグラム・ロックをやっていた時代のバンドのギタリストとして知られる人だが、ただのギター弾きに留まらない不遇の音楽家だったことは、今年日...
1971年3月29日、エルヴィス・プレスリーの『この胸のときめきを』がオリコン1位を記録する。プレスリーのアルバムで日本における最大のヒット作品は、『この胸のときめきを』であろう。71年2月11...
「モータウンの歌姫」「アメリカの恋人」「ディーヴァ」、様々な形容詞で語られるダイアナ・ロス。本日3月26日は彼女の誕生日。ちょうど75歳になる。ダイアナ・ロスは今も現役で、ツアーに周っている。今...
本日3月12日は、“JT”の愛称で呼ばれるジェイムス・テイラーの誕生日。時の流れは早いもの。今日で71歳になったが、いまもバリバリの現役アクトだ。ロック全盛の1970年代初期、時の気風に抗うよう...
Death Of A Rolling Stone-The Brian Jones Story,孤独な反逆者の肖像,サティスファクションブライアン・ジョーンズは1942年2月28日に、英国のチェル...
今からおよそ30年前の事である。ザ・ローリング・ストーンズの初来日公演が1月6日に発表されると、僕の周囲は大騒ぎになった。僕の周囲どころか、日本中が大騒ぎになったような錯覚に陥った。テレビやラジ...
ちょうど50年前の本日11月30日は、レッド・ツェッペリンがアトランティックと20万ドルという破格の契約金で契約を交わした日である。1968年7月、ヤードバーズとしての最終公演を行う前提でメンバ...
1974年11月23日、ザ・ローリング・ストーンズの傑作『IT'S ONLY ROCK'N ROLL』が ビルボード・アルバムチャート1位を獲得した。“たかがロックンロール”と命名されたこの傑作...
ジョン・レノンのソロ・シングルで初めて1位になった曲は? すぐに思い浮かびそうな「イマジン」ではない。答えは「真夜中を突っ走れ」である。それまでの最高位は、イギリスでは69年の「平和を我等に」の...
今日、11月12日はニール・ヤングの73回目の誕生日だ。生まれたのはオンタリオ州トロントで、幼い頃は近くの小さな町オメミーで育ったとされている。父親のスコットは、有能なジャーナリストで、地元の新...
1973年の本日、8月31日、ザ・ローリング・ストーンズの名作アルバム『山羊の頭のスープ』が本国、英国でリリースされた。1973年と言えば、1月に「ストーンズの初来日公演」が日本政府によって中止...
1967年6月29日木曜日、ミックとキースは麻薬所持で有罪判決を受けた。ほぼ半世紀前の出来事である。この裁判は、英国南東部にある小都市チチェスター市にあるウェスト・サセックス裁判所で行なわれた。...
ストーンズのギタリスト、ロン・ウッドの一般的なイメージは、いつも明るく元気で朗らかな感じだろうか。お調子者で、お人好しで、酒好きでヘビースモーカー、やや天衣無縫で不器用なギタリストというイメージ...
「ミック・ジャガーは多面相である」と約30年前にシンコーミュージックの書籍に書いた事がある。これは面と向って直にミックに会う前に色々な記事を読んで、およそ推測で書いたものだった。そして実際に19...
「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」はローリング・ストーンズの沢山のヒット作の中でも、珠玉の名作である。来年、この曲が誕生して50年になろうとしているが、現在でもライヴ・コンサートでは定番曲で...
本日6月2日は、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツの76回目の誕生日。ロックンロールの代名詞のようなバンドのグルーヴを長く支え続けてきたのがチャーリー。決して派手とは言えないプ...
人生において「出会い」というものは、たいへん重要な出来事のひとつである。その偶発性において、幸せになったり不幸になったりする。言い換えれば、それが「運命」というものの正体かもしれない。アンドリュ...