2018年11月12日
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2018年11月12日
秋が深まりゆく、というか、すぐそばに冬の足音が迫る季節になると、決まって取り出してくるアルバムが幾つかある。ニール・ヤングの『プレーリー・ウィンド』も、そんな1枚だ。2005年の発売なので、13年も経つ計算だが、彼の歌声は、カナダの草原に流れる風と、その音や匂いも一緒に運んできてくれるような気がする。
彼は、このアルバムで、亡くなった父親や大切な友人のこと、音楽やギターとの出会いなどを織り込みながら、文字通り、カナダのプレーリー地帯に位置するウィニペグで過ごした少年、青春時代のことをつづっている。しかも、彼ならではの豊かな情緒が全編に溢れていて、生きていくことの大切さや悲しさみたいなものを聴き手に考えさせ、切なく胸を湿らせてくれるのだ。
今日、11月12日は、そのニール・ヤングの73回目の誕生日だ。アルバムでは、ウィニペグ時代のことが印象深く描かれているが、生まれたのはオンタリオ州トロントで、幼い頃は近くの小さな町オメミーで育ったとされている。父親のスコットは、有能なジャーナリストで、地元の新聞『トロント・サン』にスポーツ関連の記事を寄稿したり、小説を書いたりしていた。
幼い頃のニールは、生命の危機に瀕することもあったほど病弱だったという。6才のときにはポリオに感染し、その後遺症で歩く動作が少しぎこちなかったらしい。そのせいだろうか、ステージでギターを弾くとき、足で大きくリズムをとるような、独特のアクションで、ぼくらの耳ばかりか、目までくぎ付けにするのだから、人の運命なんてわからないものだ。
13才のときに両親が離婚、兄のボブは父スコットに引き取られ、ニールは、母親ラシーと一緒にウィニペグへと移っている。そして、マニトバ州のブレーリー地帯、このウィニペグは、彼の人生で欠かせない、思い出深い町になっていく。アルバム『ブレーリー・ウィンド』では、60才を前にした彼が、2005年6月に父親を亡くし、彼との思い出をつづっていることは、既に記したとおりだ。
例えば、幼い頃、父親が膝の上でギターを弾きながら歌ってくれたこと、その父親が認知症を患っていく淋しさなどを。その父親と同様にアルバムには、幾人かその思い出にと名が記されているが、その中には、ケニー・バトレーやルーファス・シボドーの名もある。ケニーは、『ハーヴェスト』や『ハーヴェスト・ムーン』などで、ストレイ・ゲイターズの一員として参加し、2004年9月に他界したドラマーだ。ルーファスも、『カムズ・ア・タイム』や『オールド・ウェイズ』で演奏してくれたケイジャン・フィドラーで、2005年8月に旅立ったばかりだった。
そして、ウィニペグは、もちろん、音楽の道へと本格的に踏み出していく上で忘れがたい舞台だった。高校生の頃、スクワイアーズというバンドを組み、彼はリード・ギターを担当する。最初はパーティを盛り上げる程度のバンドだったが、次第に力をつけていった。1963年暮には、唯一となったが、「ザ・サルタン/オーロラ」というシングルを残している。いずれも、インストゥルメンタル・ナンバーだ。
当時、カナダではクリフ・リチャード&シャドウズの人気が高く、ニールが、そこのギタリスト、ハンク・マーヴィンに憧れていたせいもある。その後、ニールが歌詞を書き、歌うようになっていく。ちなみに、その頃、ウィニペグでいちばんのバンドは、シルヴァートーンズというバンドだった。殊に、看板のランディ・バックマンは圧倒的な存在だったらしい。後に、ゲス・フーで「アメリカン・ウーマン」をヒットさせ、バックマン・ターナー・オーヴァードライヴを率いることになるギタリストだ。そのシルヴァートーンズが、ニールの「フライング・オン・ザ・グラウンド・イズ・ロング(僕のそばに居ておくれ)」を取り上げ、レコーディングしている。バッファロー・スプリングフィールドで発表するよりも1年前、1965年のことだった。
やがて、スクワイアーズは、ウィニペグだけにとどまらず、周辺の街まで遠征するようになり、オンタリオ州のフォートウィリアムに出掛ける。そこで、フラミンゴ・クラブやフォース・ディメンション・クラブに出演するうちに評判も上がっていく。そんなところに、1965年4月、ニューヨークから、カンパニーというバンドが街にやってくる。
そこの、白人ながらもソウルフルな歌をうたう若者と、ニールは、気が合ってたちまち親しくなった。それが、スティーヴン・スティルスだ。以前は、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジでリッチー・フューレイらとオウ・ゴー・ゴー・シンガーズというフォーク・グループで活動、その後、フォーク・ロック・バンド、カンパニーで新しい可能性に向けて走り始めていた。
スティルスは、ニールに、ニューヨークの住所を記したメモを渡して街を後にする。もちろん、再会を約束しながら、だ。二人は、会いたいのにすれ違いばかりの運命の悪戯を経ながら、ロサンゼルスで奇跡の再会を果たし、バッファロー・スプリングフィールドを誕生させる。互いの車が渋滞に巻き込まれ、反対車線にいたのに気づくという、ロック神話の一つとしてその後語り継がれる瞬間だ。ちなみに、そのとき、ニールが運転していたのは、古い53年型の霊柩車だったという。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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