2019年01月21日
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2019年01月21日
ぼくが吉田拓郎を初めて取材したのは、1970年のことだったと思う。場所は旧文京公会堂。その楽屋で、音楽雑誌『Guts(ガッツ)』の編集者だった渡辺浩成に拓郎を紹介してもらったのだ。
音楽雑誌の編集者とは顔見知りだったろうが、芸能雑誌『明星』の新米編集者なんか、拓郎の視野には入っていなかった。
「初めまして。『明星』の鈴木といいます。よろしくお願いします」
と声をかけたが、拓郎は「ん」と声を漏らし、チラリとぼくを見ただけ。あとはギターのチューニングに入って一言も発しなかった。
おどおどして、考えていた質問もろくにできなかった新米編集者のぼくは、結局「吉田拓郎の伝説」という見開き2ページの記事を、その楽屋とステージでの拓郎の様子の情景描写だけで書き上げるしかなかった。考えてみれば、その拓郎だって東京へ出てきて間もない若者だったはずだが、すでに相手を寄せつけない鋭さとオーラを発していたのだ。もうほとんど半世紀前のことである。
しかし、なぜかその後、ぼくは拓郎と割合親しく話せる間柄となり、一緒に海外旅行などもするようになった。
吉田拓郎は「結婚しようよ」(1972年1月21日発売)の大ヒットで、いわゆるフォークソング的世界(!)から脱し、音楽シーン全体のアイドル的存在になった。世間からは驚きの声が挙がったが、それは必然だったと思う。
「結婚」という言葉をタイトルや歌詞に取り入れたことも新鮮だったが、それ以上に、この歌が、フォークというジャンルのイメージであった「闘う歌」から脱皮し、「暮らしの歌」への大転換だったからだ。「我ら」や「私たち」という複数形から「わたし」や「ぼく」という一人称へ、歌の主体が移ったのだ。
象徴的に言えば、岡林信康から吉田拓郎へ。もっと具体的には「私たちの望むものは…」から「ぼくの髪が肩までのびて…」へ。
しかも、この歌は晴れ晴れと明るい。この明るさが、新しい音楽への道筋を作るように見えた。1960年代末の“闘い疲れた若者たち”が一歩前へ踏み出すには、何か別のものが必要なのだとぼくは思っていたから、この歌の持つ明るさに「これだ!」と思わず“膝っ小僧をたたいた”のだ。マイナーからメジャーへ…。
同じ一人称でも、四畳半フォークと称された湿度の高い“私小説”的な一群の歌とは決定的に違っていた。
昨年末、ぼくは『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)という本を出した。その中で拓郎についても触れた。
当時、新しい音楽を目指したフォークシンガーたちは、自分たちを「こちら側」、旧い体質の芸能界を「あちら側」と呼んで区別した。それについて、のちに拓郎はこんなことを言っていた。
…「ほんとうは、おれは『こちら側』じゃないと、ずっと思い続けていた。『こちら側』で一応の地位を得たけれど、本来は『あちら側』のほうが自分に似合っていると思っていたよ」…。
その気分はよく分かった。
「明星」1972年11月号で、ぼくは沢田研二と吉田拓郎の対談を企画した。タイトルは <ジュリー×たくろう対談 ぼくたちすっかり酔っちまってね>
これは、72年という時代を考えれば、歌謡曲とフォークという垣根を超えた、画期的な対談だったと思う。
とある料亭で収録したのだが、このとき、拓郎はタイトルどおり、それこそ“すっかり酔っちまって”(「旅の宿」)いたのである。ヒット曲を連発し絶頂期にあった拓郎だったけれど、芸能界の頂点ともいうべき大スター沢田研二という存在は、とても眩しかったに違いない。酔うことによって、その眩しさに対抗しようとしたのだったかもしれない。
この対談がきっかけになったのかどうかは分からないけれど、拓郎はフォークの枠組みから飛び出し、森進一『襟裳岬』(1974年)の曲を書いて作曲家としての地位を確立し、やがてアイドルたちへの曲の提供なども手掛けるようになる。
吉田拓郎は、“フォークソングという枠”におさまりきれる器ではなかったのだ。それを拓郎自身が意識した曲こそ「結婚しようよ」だったのだと思う。
≪著者略歴≫
鈴木耕(すずき・こう):1945年、秋田県生まれ。本名・鈴木力。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。『月刊明星』『月刊PLAYBOY』を経て、『週刊プレイボーイ』『集英社文庫』『イミダス』などの編集長。1999年『集英社新書』の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。近刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)。
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