2015年10月20日

46年前の本日、弘田三枝子「人形の家」がオリコン・チャートで1位を獲得

執筆者:馬飼野元宏

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1969年10月20日、弘田三枝子「人形の家」がオリコン・チャートで1位を獲得した。


「弘田三枝子がイメージ・チェンジして出てくるから、彼女に曲を書かないか」

新進のアレンジャーで、ベンチャーズ歌謡「二人の銀座」や、テンプターズ「エメラルドの伝説」の編曲で頭角を現していた川口真は、弘田三枝子の担当ディレクター・鈴木亮一からそう言われ、弘田に会うことになった。そのときの印象を川口は、“あまりにも突然、物凄い美人になっていてビックリしたけど、会ったそのイメージで曲を書いて欲しいと依頼された”と述懐している。具体的な曲の指定はなく、川口はひと晩で曲を書き、なかにし礼に渡した。


弘田三枝子は47年生まれ。小学生の頃から立川の進駐軍キャンプでジャズやポピュラー・ソングを歌っていた。日本コロムビアやビクターのオーディションに落ち、まだ新進メーカーだった東芝音楽工業の草野浩二ディレクターに見出され、61年に14歳でヘレン・シャピロの日本語カヴァー「子供じゃないの」でデビュー。


庶民的なルックスと圧倒的な歌唱力で“パンチのミコちゃん”と呼ばれ、コニー・フランシス「ヴァケイション」の日本語版で大ヒットを飛ばし、続く「悲しきハート」「砂に消えた涙」などもヒット。ダイナミック・レンジの広さ、「ま・ち・ど・お・しいのは~」のスタッカート唱法にみられる明快でキレのいい発声、ドライヴ感溢れるヴォーカルで、洋楽ポップスを日本語で歌う際のお手本となる歌唱法を確立した。64年10月には日本コロムビアへ移籍、65年7月には日本人歌手として初めて、米国のニューポート・ジャズ・フェスティバルに出場する。ジャズからR&B、日本民謡まで歌いこなし、ポップスの女王の名を欲しいままにした。


だが、当時のポップスは若者限定音楽で、シンガーは大人になるにつれ“ポップスではない歌謡曲”を歌わざるを得なかった。伊東ゆかりの「小指の想い出」も、グループ・サウンズがムード歌謡へ移行したのも、同じことである。


また、ビートルズの登場で、小編成のバンド・サウンドによるロックンロールが人気を博すと、ポール・アンカ、コニー・フランシスら従来のアメリカン・ポップスの歌い手たちにヒットが出なくなり、必然的にカヴァーする楽曲も減る。カヴァー・ポップスは衰退し、他のカヴァー歌手と同様に弘田三枝子も方向性を模索する段階に入った。


弘田三枝子は、まず67年7月10日発売の「渚のうわさ」で方向転換を図る。ストリングスやホーンを多用し、オーケストラとバンド・サウンドを融合させたこの曲は作詞:橋本淳、作編曲は筒美京平によるもの。レコード品番P-1はコロムビアの邦楽ポップスのスタートを飾る記念すべきナンバーだ。弘田は続いて同傾向の「涙のドライヴ」、スタックス系ソウルの歌謡化に挑んだ「渚の天使」、テンプテーションズ「マイ・ガール」を下敷きにした「可愛い嘘」など、橋本=筒美と組んで5連作を発表。そして、満を持して放ったのが69年7月1日発売の「人形の家」であった。


Aメロ/Bメロ/サビのシンプルな構成ながら、随所で語りかけるような三連符を配し、サビでは弘田の歌唱力を活かし大らかなメロディーを施す。ストリングスにドラム、パーカッションが絡み合うダイナミックな演奏、まるで建築のごとき立体的な楽曲づくりで、スケールの大きな欧州系ロッカ・バラードが誕生した。実際、アルバム『弘田三枝子70~ポピュラー・ビッグ・ヒッツ』に収録された同曲の英語バージョンは、まるで洋楽のよう。川口真にとっても初の作曲作品で大ヒットとなった、記念すべき1曲だ。


そして「私はあなたに命を~」が「はったしはー、はぁーなたにー、ひのち、ほー」に聴こえる独特の歌い方。「ヴァケイション」の「すてきひぃーな、ことぉーよー」と同じく、英語詞に比べパンチの弱い日本語のアタックを強めるのに有効な歌唱法なのだ。ルックスだけでなくシンガーとしても大変身を果たした弘田三枝子だが、ジャパニーズ・ポップスのパイオニアとしての矜持は健在であった。この時まだ22歳である。


弘田三枝子

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