2015年05月16日

オレたちひょうきん族OA開始 EPO「ダウンタウン」

執筆者:宮田茂樹

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あの頃はたしかに土曜日の夜はにぎやかでしたね。


とにかく「オレたちひょうきん族」は「お笑いバラエティー」をあたらしいかたちで僕らに提供してくれました。(小林信彦さんあたりはネガティヴなんでしょうが)。その放送開始から今日(5月16日)でもう34年も経ってしまったようです。
そんな全国ネットのお笑いバラエティーに、なぜあまり売れてもいなかったエポの歌が使われたのでしょうか? なぜエポはダウンタウンを歌ったのでしょう? そこいら辺のいきさつを少しだけお話ししてみたいと思います。

1978年の冬のことです。ある都立高校に通うJKをラジオ局の友人に紹介されたのです。その娘の名前は「佐藤栄子」。電話をかけ世田谷は三宿の喫茶店で会うなり、「こんにちは、エポって呼んでください」。とても明るく元気な娘でした。シュガー・ベイブが大好きだそうで、2時間も話し込んで、「レコードを作りませんか」と訊くと、「私、もう体育大に推薦入学が決まってるんで、時間が……」。アラララ、う〜んどうしよう。



会社に戻って彼女から渡された自作曲のデモ・テープを聴いていると、ふと「ダウンタウン」という言葉が頭に浮かんできたのです。これはイケるぜ! A面の一曲目をシュガー・ベイブの「ダウンタウン」(作詞・作曲 : 山下達郎・伊藤銀次)で、B面の一曲目をトニー・ハッチが作曲したペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」でいこう。いいじゃないか。考えてみれば世田谷生まれで世田谷育ちのエポはダウンタウン・ガールなんかじゃないんですが、走り始めた妄想はもう止めることができません。


さて問題は頑固者の山下達郎が快く承諾してくれるかどうかでしたが、竹内まりやの「セプテンバー」を聴いた達郎は「なかなかヤルね、この娘。ダウンタウンをカヴァーすんの? やりたきゃどうぞ」。といかにも偉そうに快諾してくれたのです。いまでこそ「カヴァー・カヴァー」とかまびすしいですが、80年当時は「カヴァー」という概念や言葉はほとんどの人が知らなかったんですよ。音楽業界でさえ理解している人はほんのわずかでした。


1980年5月21日にエポの「DOWN TOWN」はリリースされ、まりやに続けとばかりにRCA邦楽は一丸となってプロモーションにかけずり回っていたのでした。しかし、アルバムの評判は高くても売り上げがそれに追いつかない。当時のニューミュージック斑ですから、テレビ局へのプロモーションなんかはまったく頭にありませんでした。
ところが、1981年のある日、山下達郎の事務所の仮の社長から電話があり、フジテレビの「オレたちひょうきん族」のスタッフが、エポのダウンタウンを使いたいと言ってるんだけど、どうする?」。どうすると言われてもねぇ、使ってくれるんだったらかまわないよ、くらいの思いでいると、番組スタッフの永峰明さんから直接電話があって、どうしても使わせて欲しいとおっしゃる。それなら、ちょっとしたプロモーションにはなるかもしれないと、軽い気持ちで承諾したんです。それがいろいろなことの始まりでした。


今になって推測するに、フジテレビは最初シュガー・ベイブのダウンタウンで打診してみたら、当時(今もか)テレビを極端に嫌っていた達郎が無碍にも断って、エポを紹介してくれたんじゃないかしらん。それに、ひょうきん族の放映は始まったばかりで視聴率も二桁に至らず、あまり知られてなかったしね(「DOWN TOWN」がクロージング・テーマ曲として使用されたのは2回目以降)。


「オレたちひょうきん族」はあれよあれよという間に人気番組となり、それに伴ってエポの知名度も上がって「THE MANZAI」「タケちゃんマンの歌」「土曜の夜はパラダイス」とエポの作った曲がひょうきんスタッフに続けて使われ、エポはメジャー・シンガーの仲間入りをすることができたのでした。
以上が、佐藤エポ子とダウンタウン物語の顛末です。
亡くなってしまった横澤彪さんをはじめ番組のスタッフの皆さん、本当にお世話になりました、厚く御礼申し上げます。
う・ふ・ふ・ふ……。

「ダウンタウン」EPO写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト

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